2022/4/14~16
昨日と今日はかなり虚無でした。明日も虚無です。まとめて書きます。
書いてないですがあとは息根とめるのティラノサウルスレースの配信を見てました。配信はめちゃくちゃ面白かったです。右翼ザウルスが好きです。
息根とめるは最初にバズった時の結構早い段階から見てるんですが、最近更に知名度が上がって、その結果切り抜きのコメント欄とかに凄くまともなド正論を書く人とかも増えてて、なんかそれは違うなと言う気にはなってます。なまほしちゃん含め、息根とめるもそうですが、本人達の虐待とかの壮絶な人生とか不幸とかには本当に同情しますし、そういうことはあってはいけない事だと思っています。しかし同時に、彼女たちは別に安い同情が欲しくて活動してるわけではないとは思うし、何より同情する心は立派で美しいですが、それだけなので、何かこう、そういう正しいことを主張することで問題自体の解決から遠ざかってる姿勢そのもの、みたいなのに少し嫌悪感を感じています(丸々感を感じるって正しいですか?)。そもそも彼女たちは、自分の不幸や、人生自体をコンテンツにしてしまうことで、自らの不幸を単なる不幸から不幸コンテンツとして消費してもらうことで、多少ストレス発散というか、何とかやってけてる側面はあるとは思っていて、それに対して当事者目線だと何の役にも立たないただの同情、というかただの不快感の現れみたいなのをマジレスする、みたいなのはそもそも元々のコンテンツとして違うのかなと思ってます。彼女たちは自身の不幸とかをコンテンツにしますし、視聴者もそれに同情していますが、そこに過度の真面目さを持ち込むのはコンテンツをコンテンツではないものにしてしまうので、まあ違うのかなと。彼女たちはコンテンツとして提供出来て、自分としてもコンテンツにしたい(あるいは多少コンテンツにしないとやってけない?)みたいなものがあり、視聴者目線としてはそれをまあ激ヤバコンテンツとして楽しみながら、個人個人で考えることはあるかもしれない、くらいの互いの利害関係(?)を持ったコンテンツなので。勿論、不幸コンテンツの結果、視聴者が個人個人で心が変わって、例えばボランティアに参加するとかそういう風になる分には結果として世界にとってとてもいい事ですし、そういうふんわりとした啓蒙としてコンテンツが機能する分にはコンテンツの範疇だと思います。しかし何かこう、彼女たちの不幸を真面目に不幸として捉えて、自分の持ってる「正しい心」みたいなものとの比較を通じて、怒りとか不快感を露わにすることで、間接的に自分はそうではない、みたいな気持ちを得るためのオナニーコンテンツではないのかなと思ってます。まあこういうのは私の好きなジョルジュバタイユの影響が強くて、興味がある人ほ例えばヒロシマの人々の物語とか読んでみるといいと思います。
壱大整域 圏論 0章
可換環論の様相 6章
ドラゴンボールZ たった一人の最終決戦
これがバーダックだしこれだけがバーダックです。バーダックのかっこいいところはなんか親子愛とかそういう俗物とかのために戦うのではなく、仲間のためにたった一人でも戦うという戦士のかっこよさで、親のエゴとして自身の望みをカカロットに託すけど、それは別にカカロットからは拒否されてるみたいな感じだからな。そもそもバーダックの思いみたいなのはフリーザのデスボール的なやつ(違うけど)に吸収された時点で潰えたので、バーダック視点としての叶うことの無い一縷の望みがカカロットにかけられて、その結果バーダックの戦いは終わるみたいな感じだと思っていて、要するに未来まで自身の望みを託すことまでがバーダックの戦いでそれ以降はもうバーダックの戦いは終わってるみたいな。
たまこまーけっと 第3話 クールなあの子にあっちっち
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