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アトピーと喘息でも人生をバラ色にできるお話 その23

皆さま、こんばんは

アトピーと喘息でも人生をバラ色にできるお話 その23

ゴールデンウィークが終わり、日常が戻ってきました。
昨日は母の日
私は昨日が母の日とは知らず、よって母には何もせず、自分の子どもからも丸無視されるという、そりゃそうだよね、な日でした(^^;;

夜になって母に『お母さん、母の日おめでとう』とラインをしたら、85歳の母から『母の日?今は5月だっけ?あら、ありがとう。知らなかったよ』と返事が来た。
この親にしてこの子ありで、うちはうちなりにハッピーです^ - ^

という訳で前回のイギリス語学留学の続きで、いよいよ帰国と夫との結婚のお話(^-^)

成人式の振袖代りの2ヶ月のイギリス語学留学はあっという間に過ぎ、いよいよ帰国の日を迎える頃となった

ホームステイ先で一緒だった、スイス人のゲイのピーターさんには、ミサがいないと寂しくなると何度も言われて切ない気持ちになった
私の英語への意欲を掻き立ててくれた恩人のピーターさん(たぶんピーターさんは私の恩人になってるなんて認識してないでしょうけど^^;)
彼の写真家の彼氏は、たぶんイギリス人だと思うけど、その割にピーターさんの英語力はあんまり上達しておらず、人間のコミュニケーションって言葉だけじゃないのかなとその奥深さを感じた。

ホームステイ先の奥さんは30代前半でまだ若くて、ご両親の代でスペインから移住してきたので、時々奥さんのお母さんが来て孫の子守りをしていたが、『奥さまは魔女』のサマンサのお母さんとそっくりだった。
すごいスペイン訛りの英語だったけど、親切におしゃべりをしてくれた

綺麗な、文法的に正しい英語が英語なんだと思っていた固定概念が崩され、表現したい事を表現すれば良いんだと思えた

★何かのジョークで、イギリス人(アメリカ人?)がドイツに旅行して、バーでドライマティーニを注文したらマティーニが3本出てきた(ドイツ語でドライdreiは3の意味)とか

★日本の寿司屋で「お手頃価格」の意味でエコノミーと寿司を注文したら、「お好み」ととられてバカ高い値段を請求された、とか

外国語がうまく喋れない、伝わらない体験も、良い思い出やジョークのネタにしてしまう(^-^)
そんな大らかさが私を緩やかにしてくれた\(^o^)/


たくさんの宝物をもらえたイギリス語学留学から、行きと同じ南回りの飛行機で帰国した

4月の日本は蒸し暑いと感じた
この湿気では喘息とは縁が切れないだろうなと自分の体のハンデを思い出した。

当時付き合っていた今の夫は医学部6年生になっており、翌年の国家試験に向けて勉強一筋の生活のハズが、結構デートするヒマもあったりだった

高校時代からうちの一家では、それとなく私は結婚は考えない方が良いという教えだったので(喘息やアトピー、脊柱管狭窄症では主婦や子育てはムリだろうという理由)、夫は勉強の息抜きに私とデートしているだけで、それ以上の意味はないだろう位に思っていた。

母にはデートする人ができたと話した。
するとどんな人かとうるさいので、静岡出身の医学部の人とだけ伝えた。すると意外な返事が
「医者は気をつけた方がいいよ。言い寄られて遊ばれた看護婦がたくさんいるんだから」
だった(^_^;)

当時看護師長をしていた母は、地方からリクルートしてきた純朴な若い看護師を東京の良からぬ男から守るのも仕事のうちだった。
特に、そっちのスジの人(893さん)と研修医には要注意だったらしい。

どうも夫のイメージと、母が言う悪い医者のイメージとが一致しないので「そんな事ないと思うよ」と言うと、「そうだと良いけどね。気をつけなさいよ」だった

で、夫には母とのそんな会話は内緒にして、母のことを話すと母に会ってみたいと言い出したので、会ってもらうことになった

夫と会った後の母の感想は 
「医者らしくないから良いんじゃない?」だった
ちょっとフクザツな気分だったけど、付き合うのを認められたのは良かった

翌年国家試験に受かった夫は大学病院で研修となった
当時は給料は手渡しで、医局の事務のおばちゃんの都合で給料日にお給料をもらえないなんて事が良くあったらしく、明らかにしょぼ〜んとしている時はもらえなくて金欠の時だった(分かりやすい)

その翌年の秋に遠距離恋愛の最中に婚約をした。
今思えば夫から正式なプロポーズの言葉をもらっていないが、当時かなりの激務だったようで
「早く60歳になって年金でミサとのんびり暮らしたい」と言っていたので、それがプロポーズの言葉ということになっている、私の中では^^;
ロマンチックのカケラもないプロポーズの言葉だが、ないよりマシ(-。-;

夫があの時憧れていた60歳は4年前に過ぎて、私も今年60歳になる。
時の経つのは速いなぁ

夫は60歳を過ぎてより一層忙しくなり、年金でのんびり暮らす夢は叶っていないけど

結婚など予定になかった私が結婚し、体調の事を考えたら子どもを育てる自信も持てなかった私が3人の子どもに恵まれた

何か導かれるようにこうなった気がする

今思うのは、アトピーさえなければとか、喘息さえなければと思っているうちは何もかもうまくいかなかった

臭い、あっちへ行け、気味悪い、不潔女、様々な言葉や態度で嫌がらせを受けていた
遠足や修学旅行の班編成では、どこからも引き取り手がない子の中にいた。

ところが小学校5年生のある日、なぜか猛烈に両親に心から感謝した時から、アトピーや喘息の事で自分をおとしめるのはやめようと決めたんだと思う
それはどんなに大変でも私のために一生懸命になってくれた両親に申し訳ないと思ったから


その後も相変わらずアトピーや喘息はあったけど、さらに脊柱管狭窄症にもなったけど

だから結局は何もうまく行っていなかったけど、でも私は少なくとも持病のことばかりを気にして悲観している自分ではなくなった
そこだけが以前と違っていた


後に夫に、私のどこが良くて結婚したの?と聞いたら「ミサは病気とか全然気にしてないところが良かった」と言ってくれた

今は、アトピーや喘息などの病気を体験した私だからこそできる貢献があると思えるようになった

自分が変わるとガラッとステージが変わることを身をもって経験した


コンプレックスはコンプレックスで終わらさない。
それは産んでくれた両親や、この世に送り出してくれた大いなる存在に失礼だと思う。
コンプレックスは最強の武器になる

私の場合はコンプレックスなんてもんじゃない、どう考えてもマイナスの塊だったけど

それでも自分の尊厳だけは誰からも傷つけられない。
自分さえ傷つけたりしなければ


今日もここまで読んでくださってありがとうございましたm(._.)m

イギリス留学中にお世話になったホームステイ先の奥さんのお母様に似ている、『奥様は魔女』のサマンサのお母さんです(左端がお母さん。中央ダーリンとサマンサ)

『奥様は魔女』は留守番ばかりだった小学生の頃に良く見たドラマで、大好きでした
♪(´ε` )

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