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アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話 その11

こんにちは
皆さまはお元気でいらっしゃいますか?

私はお陰様で今とても元気です

アトピーと喘息でも人生をバラ色にできるお話 その11

有意義で最高の高校生活3年間の最後の最後に、脊柱管狭窄症の中でもかなり稀有な状態という、すべり症という病気(?)になり、まだまだ私の健康には黄色信号が灯り続けることになった

いったい私が何をしたって言うんだろう?
前世で何かやらかしたのか?
なんで私ばっかり

その当時はそう思ったけど、今にして思えばそれも自分が決めたことだったようだ

そう言う訳で、大学受験生生活は更なる苦しみを抱えてスタートすることになる

なにしろジッと座っていることができない
左足の慢性的な痺れと、鉛を引きずっている様な重だるさ
それに加えて腰痛がずっとある

1時間も座っていられない

アトピーの痒みで集中できないのとはまた違った状況だった
喘息はいざとなったら気管支拡張剤のお世話になれるからかつてほど問題はない

なじみの病気(それもどうかと思うが)とは違う新たな苦痛を引き受けるのはキツかった

そうなると、当初の「ウイルス性のもので、悪くすると一生車椅子生活」と言われた誤診がありがたかった。

あの誤診があったお陰でそこまでじゃなくてよかったと思えた
大学にも頑張れば行けそうだ

とはいえそれなりの厳しい症状があり、医師には一生に最低は一度、多くて2度3度の手術が必要と言われた

大学は本当は看護学部に入ろうと思っていた

母が看護師だったのと、当時は独身の看護師さんが多かったので、生涯独身予定の私が居心地良さそうと思ったのだが、まさかの母の反対が>_<

それは、腰痛持ちでオペ(手術)待ちの看護師なんて使い物にならん!という事だった(´༎ຶོρ༎ຶོ`)
(看護士長をしていた母は今でいうシフト- 勤務管理表を作るのが結構大きな仕事だったから。しょっちゅう休みそうな看護士はゴメンという事だ)

確かになぁ〜
自分が患者になる確率の方が高そうだ

と言う訳で、看護学部は諦めて(と言うより文系の私は看護学部はハナっからお呼びでない。気づくの遅!)、小学校教員になるべく、教育学部に行きたいと考えた

が、ここでも問題が!

小中高の3度の修学旅行と林間学校で喘息が出なかったのは高校の修学旅行だけ
修学旅行に児童を引率する立場で喘息発作は起こせない。
しかも小学校の先生となると体育や音楽もやらなければならない

アトピーで汗が大敵なのに、掻きむしりながら体育指導をしている姿をイメージするだけでも教育上よろしくない事はすぐに分かった

それに教育学部は人気で、倍率も偏差値も高かった。

そんなこんなを考えると私が生きていく上でやっぱり相当なハンデだなぁ、このアトピーと喘息と、最近加わった腰椎のすべり症は( ;  ; )

しかしそれを再認識したところでちっともハッピーな気分にはなれない。

どこか私が活かせる学部はないものか?と思っていたらば、新聞の投書欄で法律の知識があるのとないのとでは格段の差があるとかいう人の投書をたまたま読んだ。

確か離婚した女性の投書で、慰謝料とか財産分与とか諸々の事は知っていないと大損みたいな経験談だった

高校生の私がそれを読んで何を思ったのか、法律を勉強するのもアリだと思った。

と言う事で法律が勉強できる大学に行こうと考えた。

それと進路指導の先生が、法学部なら会社勤めにしろ公務員になるにしろ潰しが効くとおっしゃったのが決め手だった

「潰しが効く」この言葉は魅力だった

なにしろ人並み以下の体力で、人様の何倍もハンデを負っている身なので、あれもこれも資格や専門の勉強をする余裕はない

健康な人からは「最初から諦めてどうする」とよく叱咤激励されたが、申し訳ないけどその激励はハンデまみれの私には苦痛でしかないのだ

ここで話は変わる様だが変わらない、私の祖父の話

海軍の軍人だった祖父は日中戦争が激しくなり、太平洋戦争に突入した頃に軍で伝された結核で本国に戻された。
治療法はなく、足手まといなので本国で死んでくれという事だったらしい

実際入院した海軍病院はコの字型の建物で、コの字の最後の横棒の先は焼き場だったそうだ

最後の病室に移されたら半月以内に死ぬという事だったらしい。

祖父が最後の病室に移された時に祖母が誰かからその話を聞いて、どうせ死ぬなら我が家で死なせてやりたいと家に連れ帰り、献身的な看病をして祖父は奇跡的に回復した

その祖父が、「人生で一番大事な物は何か知っとるか?それは健康だ」と常日頃言っていた

職業軍人だった祖父は一番肝心な時に力を尽くせなかった。
健康を害したことで、人生の意味は半減したと思ったそうだ
実際祖父はご臨終状態を何度となく経験し、奇跡的に生き延びた

頭の良さなんてなんの意味もない
健康である事だけが重要だ

と祖父は言っていた

私は、健康の面でハンデを負ってしまった以上、この病気とうまく付き合っていくしかない
これ以上健康を害するわけには行かないのだ

なので、「ムリはしない」というのが私の第一優先だった

最初から苦痛にさいなまれる状況が予想されるなら、近づかないに限る
後で苦しむのが分かっているなら挑戦すべきでない

慎重すぎるかもしれないが、それがハンデを負っている私の生き方だった

見た目健康そうに見えるからタチが悪い

子どもの頃のアレルギーや喘息の薬の副作用で太りやすくなっていた

体が大きく、なんでもない時は何でもできそうに見えるので周りから期待され、期待通りでないと分かると露骨にガッカリされた

そういう経験は子どもの頃から日常だったので気にしていないつもりでいたが、やっぱり面白くない気持ちもある

人それぞれ世界観がある
歴史がある
その人がそう考えるには何かしらの理由があるんだと思う


そう言う訳で、少ない労力で大きなリターン「潰しが効く」法学部に行くことにした(良かった、話が戻ってきて(^-^))

それから色々あって、、、
大学に合格

晴れて法学部の学生となったが、とにかく東京の通勤ラッシュはごめんなので(満員電車で肋骨がミシッと鳴った経験アリ)、当時その祖父が住んでいた家に下宿させてもらうことになった

その時の祖父の、「家に住まわせて上げる条件」というのが面白かった

色々あったが、最もユニークだったのが、「囲碁部に入ること」だった

祖父は確か会社役員の職を離れて家で悠々自適の毎日だったが、大好きな囲碁の相手がいなくて困っていたので、孫娘の私を囲碁部に入部させて囲碁の相手をさせる算段だった

私は私で、囲碁のことは全く分からず、だいたい頭を使うことは大嫌い。
何手先まで読むとかぜったいムリ!
⭐︎出たとこ勝負
⭐︎直感優先
⭐︎先を読むよりまずやってみてから考える

という性分だから、祖父の条件はのらりくらりとやり過ごす予定でいた

だがしかし、海軍軍人だった祖父は私に出した条件をキッチリ覚えていて、一歩も引かない勢いだった

毎日帰宅すると必ず「囲碁部に入部したか?」と聞いてくる
「まあね」とか、「そのうち」とか言っていたが、祖父も大したもので「今日は何を教わってきたんだ?」と、入部した体で話をする作戦に出た

しかもその後も何度となくプレゼンの仕方が変わり、ついには囲碁を知っていると社長や会長に可愛がられて秘書にしてもらえたり、それで給料も上がったりするぞ、と言い出した

これには私もまんざらでもない気分になって、囲碁部に入ってみるのもいいかもと思い出した(おじいちゃんの思うツボ)
それでもイメージがイメージなので、イヤイヤ囲碁部の部室に行った

きっと気難しい、暗〜い感じの人ばかりなんだろうな〜
女性部員なんていないよね、ぜったい、はぁ〜

とため息をつきながら「こんにちわぁ」と弱々しい声で部室の戸を開けると、そこには可愛らしい女性部員が2人で囲碁を打っていた。
2人ともこっちを向いて「こんにちわ」と言ってくれた
(╹◡╹)♡
私を見てすぐにパァーっと顔が明るくなり、「あら〜、こんにちわ。入部希望?女学生なんてすごい」と言われた

こっちはこっちで、こんなに綺麗で可愛らしい人が二人も囲碁部にいるなんて信じられない!

源氏物語で、どの段だったかすっかり忘れたが、貴族の女性が優雅に碁を打つところを源氏が盗み見してその美しさに惚れ直すみたいな描写があった様な、、、(私の妄想ならすみません)
そんな風景がふと浮かぶ素敵な場面だった

「囲碁部に入部希望なの?将棋部と一緒だからどっちかな?」と言われ、「囲碁部希望です」と言うと、「あら嬉しいわ。どうして囲碁部に入りたいと思ったの?経験者?」と聞かれ、咄嗟に私は「前から囲碁に興味があったんです」と大ウソをついた f^_^;

こんなに素敵な人が優雅に碁を打っている姿を見てそれまでのイメージがガラっと変わり、ぜひお仲間に入れて欲しいと思ってしまったから

という訳で、それからは毎日部室通いをすることになった。ウキウキで
その先輩女子部員は看護学部と教育学部の学生で、私の憧れの学部だったから余計に思い入れが強くなった

まんまと祖父の術中にハマったワケだが、それはそれで結果オーライだった

しかもそこで今の夫と出会うことになるとは

その後囲碁部の先輩方のお陰で、ちゃんと囲碁の楽しさにも目覚めて行くことになる

人生何が起きるか、どこに連れていかれるか分からないもんですね

でも必ず幸せに繋がっていくと今はそう思えます

今回もここまで読んでくださっ

てありがとうございました

※ありました、空蝉の段でした

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