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アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話 その18

皆さま、こんにちは(^o^)/

あちこちで桜の便りが聞かれる頃となりました
皆さまお元気でいらっしゃいますか?

アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話 その18

今日は久しぶりに家族で出かけ、富士宮のお寺の見事な枝振りの枝垂れ桜を観てきましたよ(^.^)

思い起こせば、子供の頃は今の時期がとってもツラい季節だった。

花粉症などという言葉がない時代に既に花粉症(T_T)
普通の人は4月の声を聞く頃には花粉症も落ち着くだろうに、私の場合はそこからさらに若葉の季節も花粉症をやり通し、6月の梅雨時には湿気が大敵の喘息発作で総仕上げとなる。

だいたいお花が咲き誇るシーズンとは、すなわち大量の花粉も飛んでるという事だからアレルギーの私には過酷なシーズンに違いない訳だ。
お彼岸のぼたもちは、もち米にアレルギーがあるので天敵のような食べ物だった(本当は食べたくて仕方なかったのに)

人様が楽しくなるような、お祝いごとの気分になるような事を素直に喜べないということはどれほどの負担だったか。

今元気な私になって改めて、体の不調がどれだけ人生の質を下げるかを痛感する

逆に言えば、体が常に好調であれば

気持ちが前向きになり
可能性を実感でき
未来にワクワクし
笑顔になり
運を引き寄せ
人を引き寄せ
より良いコミュニティを引き寄せ
経済も引き寄せ


それらの好循環が豊かに回り続ける事で人生の質は上がり続け、自分でも想像だにしなかった様な世界に導かれていく様になるのではないかと思う

昨夜はズーム栄養学茶話会をスタートした。

健康の大切さ、健康を支える具体的な栄養のお話をこれから回を追って行っていこうと思う
(毎週土曜日21時、無料、聞くだけor出入り自由)


では、前回に引き続き
大学時代 その2 
(今さらですが、前回はその1ということで^^;)

大学時代は囲碁部と法律研究会に居場所を作り、その2つのコミュニティで過ごした

囲碁部では、まるっきりの初心者なので棋力をつけるために日本棋院に行ってドリルを買って勉強したりした。
まるで小学生の夏休みの宿題並みに勉強したのも、囲碁部に居場所を作るためだったんだと思う

何しろわたし相手に囲碁をすると、ハチャメチャな手を打つので再現できないらしい。
囲碁も将棋も終わった後に最初の一手から再現して振り返りをするが、私の様な超初心者だとそれができない訳だ。

そういう訳でなんとなく初心者でいられるのも半年が限界だなと感じた
とりあえず同じ学部の仲間は増えたが、それだけでは居心地が良いとは言えなかった。
自分でも囲碁の面白みが分かりたいと思うようになった

囲碁部の先輩(今の夫)はちょいちょい息抜きに部室に現れて、初心者の私相手に囲碁を打つのに、わざと負けてやりたくても次にどんな手を打ってくるか分からないのでスリリングだったらしい。

私に囲碁の素質が皆無と分かったのか、花札やおいちょかぶを教えてくれた(^o^)
いったいなんで囲碁部に入ったのか分からない状況だったが、それなりに楽しかった ^^;
これで、「若いのに囲碁ができる有能な秘書」の夢はとっくにどこかへ飛んで行った
(さすがに、おいちょかぶや花札のことは履歴書に書けないもんね)

これではいけないと英語のビジネススクールにも通いだした

四谷にある、アメリカの大学と提携している英語学校を選び面接に行くと、面接をしてくれた50代がらみのアメリカ人の男性教師が私の発音を聞いて「どこの大学か?」
「海外に住んだことがあるだろう?」と聞いてきた

大学は普通の法学部だし、海外には住むどころか飛行機に乗ったこともない(っていうか、国内だって喘息が怖くて泊まりの旅行はそんなにしなかった。とにかく東京を出ることは数えるほどしかなかった)

全てノーと答えると、今度は高校はどこか?と聞いてきた。
高校の英語の先生は特攻隊上がりのジャパニーズイングリッシュの発音の先生だったから、先生の名前まで言わされたけど、申し訳ないけどその情報は意味がないですよ、と内心思っていた。

自分では分かっていた
英語の発音が良いのは、中学時代にビートルズファンが高じてビートルズと同じように歌いたくて、何度も何度もレコードを聴いて、ポールやジョンになりきって歌ってたから

イエローサブマリン(こちらはリンゴスターだけど)でLの発音を習得し、ロングアンドワインディングロードのロードでRの発音がしやすいワザを自分なりに発見した

それはRの発音の前に日本語の「う」を一瞬入れると見事なRの発音になると発見\(^o^)/

面接では全て英語なので、そんな説明ができるはずもなく、日本人特有のニヤニヤ笑いでやり過ごした

面接の先生はそんな私に業を煮やしたのか結論を言い出した

アメリカの大学は9月からで、今は5月だからあと3ヶ月英語を勉強すれば9月からアメリカの大学に入れるとの事。
私に専攻を聞いてきたので法学部と答えるとロースクールは人気で難しいが、普通の学部なら入れるとの事

私は嬉しくなって母にその事を話した

後になって親や兄弟が一番のドリームキラーになると聞いたが、その時の母がまさしくソレだった
(T-T)

「あんたバカだね〜、そうやってその気にさせて留学費用やら何やらで商売するんだよ。
ちょっと褒められたくらいで調子に乗ると騙されるよ」

もちろん騙す為だけなら高校の名前や、英語の先生の名前まで聞くかなぁ?
と抵抗したが、母の言い分は変わらなかった

そしてまだ10代だった私は、母の言い分に従った。
その英語学校に電話して、留学の意思はないと伝えた。
その時に面接の先生は確か授業中で電話に出られなかった
それが私の運命を決めた。
あの時面接の先生が電話に出られる状況だったら今頃私はアメリカで生活していたかもしれない。

だが、それもこれも全て私の潜在意識が決めていたんだと思う

私の中ではこれ以上親に負担をかけさせられないと思った事
そしてアトピーと、特に喘息の発作の恐怖があったこと

その時はそれが留学を諦めた理由と思っていた
だが今はそれらが理由ではない事がよく分かる

自分に降って湧いた大チャンスに当時の私はたじろいだのだ
つまり大いなる受け取りミス(>_<)


でもたぶんその受け取りミスのお陰でその後は受け取りミスをしていない。
記憶にある限りでは受け取りミスはそれが最初で最後だったと思う

母はその事が記憶にあったのか、その数ヶ月後に成人式の振袖の予算を振袖にかけるか?それとも何か他の予算に充てるか?と聞いてきた

「例えば語学留学とか、、、」

母はそう言った
それで私は即座に
「それいいね。語学留学に行きたい。振袖は要らない」と言った

私の中では半ば冗談の様な気分だった

なのに父が話に加わって、「行くならいつ、どこの国に行くんだ?アメリカか?」
と言ってきた
いつ?そんな事考えていなかったけど、行くなら大学に支障の出ない春休みかなぁ

自分でもびっくりするほどどんどん話が具体的になっていく

今思うのは、いつか、そのうち、と言っていたら実現しなかった
あの時急に父がその気になってくれて矢継ぎ早に質問してくれたから、私の語学留学は実現した


夢を叶える王道を行った訳だ

父に感謝
母に感謝


それから色々あって、結局私は春休みを目一杯使ってロンドンの英語学校に語学留学した

それは人生初の飛行機
人生初の海外
人生初の長期滞在だった


父が取ってくれた航空券はロンドンまで24時間かかる南回り航路だった

途中で香港にトランジットする際、自動小銃を肩にかけた軍の関係者みたいな人がそこここにいる事にショックを受けた

ここは外国なんだ
ついに日本を出たんだ


これから2ヶ月の間の自分の運命に不安が襲ってきた瞬間だった

大人しく振り袖作ってもらっとけば良かった(T-T)
もう後には戻れない、行くしかない
そんな自分をおちゃらけでやり過ごすしかなかった

ツラい毎日を客観視して、おちゃらけで乗り越えてきた自分なりの生き方が功を奏した
アトピーや喘息があったればこそ!
あとは野となれ、山となれ

今にしたらものすごくオーバーな話だけど、その時はそんな気持ちだった

ガトウィック空港ではさっそく釣り銭ごまかしに遭った
バイトのお兄ちゃんみたいな人に釣り銭をもらえず、釣り銭という英語が分からず(ビートルズの歌詞に釣り銭という単語はなかった(T-T))たたずんでいると、邪魔だからどけみたいなジェスチャーをされた

それだけだったらイギリス人が大嫌いになっていたと思うが、それ以降はとっても親切にしてもらえた

ガトウィック空港からロンドンまでの電車から見たイギリスの田園風景はおとぎの国の様だった

ビクトリア駅からはいよいよ一人
タクシーのおじさんはとても親切だった

下宿先のコーウェア夫妻は若くて美男美女のご夫婦で、娘のナターシャちゃん(7才)とはすぐに仲良くなった。
スペイン系だったのでお料理が美味しかった
時々奥さんのお母さんが子守に見えたけど、そのお母さんが、「奥様は魔女」の主人公サマンサのクセのあるお母さんとそっくりでおかしかった

コーウェアさんの奥さんはよくご近所のパーティーに参加していたが、あんまり乗り気じゃないパーティーなのよと愚痴っていたので、イギリス人でも建前と本音があるのかなぁと思った

英語に関しては、日本語になっている英語がくせもので、例えばバッテリーは英語だとバチュリーに聞こえる
それで全然話が通じない事があった
むしろ日本人に馴染みのない単語の方が先入観なくストレートに覚えられるので良かったと思う

英語学校ではご多聞に漏れず日本人同士で固まっていたので、オックスフォード出の厳しい女性教師から何度も注意を受けた

私の事を真剣に思ってくれる気持ちがありがたかった

そこで一念発起して引っ込み思案だった自分を横に置き、「私は英語ができる」を中心に置いた

するとどうだろうクラス分けテストでは二段飛びをしてトップのクラスになった

あの時面接の先生が、わたしは数ヶ月でアメリカの大学に編入できると言ってくれた事を自分の真ん中においた

やったのはそれだけなのに、状況が一変した

思い込む事
なりきる事

これが夢を叶える一番の近道
と実体験したことは大きかった

この語学留学はこの実体験をするためにあったと思う

英語学校はさまざまな国から色んな世代の人が勉強に来ていた

その中でユーゴスラビアから妹さんと来ていた青年とよく話をする事があった

その数年後ユーゴスラビアはセルビアとクロアチアで内戦となり、あの青年は確かセルビア人だったから、年齢から言ったら戦争に行っていたかもしれない
今はどうなってしまったのか知る由もない

私が帰国する最後の日にランチをおごってくれて、ロンドンの2階建てバスのミニカーをプレゼントしてくれた
私が2階建てバスの写真を見せまくっていたから、バスがよほど好きなんだろうと思ったと言っていた。

今ウクライナの事があって、その時の事を思い出す。
世界にはさまざま国の人がさまざまな事情の中で生きている

もっともっとたくさんの事を学んだ語学留学のことはまた次回に

ここまで読んでくださってありがとうございます^ - ^

素晴らしい日本の桜は平和の象徴だと思います
写真は富士市の龍眼淵からの富士山

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