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アトピーと喘息でも人生をバラ色にできるお話 その26

皆さま、こんにちは

梅雨が早々と明けたものの、雨続きの毎日をいかがお過ごしですか?☔️

アトピーと喘息でも人生をバラ色にできるお話 その26


前回から1ヶ月半のご無沙汰です
というのも、6月は色々ありました、、、

父が87歳で天の人になりました

前回のブログを書いたその数時間後に、父が施設から救急搬送されたと弟から連絡があり、その後数日間はいつどうなるか分からない状況でした

6月4日(土)の未明に心不全で亡くなりました

父の人生は壮絶でしたから、これで心安らかに天に召されたのだなぁと思うと悲しみというより、

「お父さん、楽になれて良かったね。お疲れ様」
という気持ちです

父を偲んで、父の人生を振り返ろうと思う

父の人生は波瀾万丈で、それだけでも十分小説になると、かつて何人もの友人から言われた事がある


昭和91022日に石川県の片田舎の漁村に生まれた。
両親は父親が紳士服のテーラーを営み、母親は家庭の主婦だった
2人の3人兄妹

小学生の時に中国の開拓団とかで一家で天津に移住したらしい
その前だと思うが父親が召集され、中国では相当な苦労があった様だ。
ある時中国人の子どもに請われて服の交換をしたら、年長の子どもに父の服を着た中国人の子どもが日本人と間違われて酷くいじめられたそうだ
イジメなどという生やさしい環境ではなく、一歩間違えれば日本人は命の危険に晒される様な環境だったらしい

その後終戦を迎え、父の一家(父の母親と父と妹の3人)は引き揚げ船で帰国の途に着くことになる

引き揚げ船では毎日の様に誰かが死んだそうだ
船から遺体を放り投げる光景を何度も見たそうだ


船底の雑魚寝の部屋の劣悪な環境で何日もかかって帰国したらしい

私が小学生の頃に、見知らぬおばさんと涙声で昔を懐かしんで話していた事があったが、その人は病弱で引き揚げ船ではいつこの子は死ぬかと言われていたのに、お互い命があって家庭も持てて本当に良かった、良かったと肩を叩きあって再開を喜んでいたことがあった

父の経験を知らなければ、旧知の友人との再会というところだが、死ぬか生きるかをくぐり抜けて来た者同士の奇跡的な再会だったんだと思う

空腹と不衛生と希望などない雰囲気の中でも、父は子どもだったからか先の事など考えず淡々と生きて来たのだろう
戦時中の話をする時の父はどこか他人事で、淡々としていた
むしろ悲惨な事もあっけらかんと話していた

やっと引き揚げてきて、元の土地に住み始めたものの、父親は戦地で、母親と妹との3人の生活は困窮を極めた

農業を父と母親(私の祖母)の2人でやるしかなかった
農閑期には、祖母は近くの温泉宿で中居としても働いたらしい

程なく父親(私の祖父)が復員してきてやっと極貧生活から抜け出し、人並みの生活が送れるようになった
そして一番下の妹も生まれ、家庭に平和が戻ってきた

しかしそれも長くは続かなかった
父が小学高学年の時に父親が家を出て、まもなく両親が離婚することになる

理由は、戦時中には戦友の死を遺族に語る制度みたいなものがあったらしく、それを遺族に話しに行った父親(私の祖父)が、そこの3人の子連れの戦争未亡人にほだされたようで、それきり帰ってこなくなった
その未亡人は祖父より年上だった

しばらくして帰郷した父親は、なんと母親(私の祖母)に離婚届けを見せて「助けたい人がいるのでそっちが落ち着いたら必ず帰ってくるから、お願いだからこれに判を押して欲しい」と言ったそうだ

祖母はそれを真に受け判を押してしまった

それからどれだけ待っても祖父は帰ってくる気配もなく、父が中学生くらいの時に祖母はわずかなお金と汽車の切符を渡して、祖父のいる九州に行って帰ってくる様に言うんだよと父と小さい妹を送り出した

父は母親から渡された住所を頼りに父を迎えに九州まで行ったそうだが、父には会えたものの、けんもほろろに断られ、土産を持たされて返されたらしい

父はずっとその事を恨みに思っていた

なぜなら自分達実の子はほったらかしで、成さぬ仲の未亡人の3人の連れ子を可愛がっていたから。

そして何より父親が幸せそうだったんだと思う
それがショックだったんだと思う


祖父の名誉の為に言うと、祖父は寡黙で優しい人柄で、腕の良いテーラーだった
しかし気の強い祖母が祖父をいつも責めたて、家庭に居場所がなかったようだ
祖母の気性の激しさは親戚でも有名だったそうで、家庭に向かない人の様だった

それきり父と祖父は父が30代半ばで家を持つまで会うことは無かった

その後の父の一家はまた極貧に逆戻り
父親がいないと様々な差別も受けたと思う

祖父が復員してきたのは誰でも知っているので、父親がよそに女を作って出て行ったという噂の的にされ、どれだけの苦渋を味わったかと思う
自分のせいではないのにだ

父は頭が良かった様で、中学ではいつもトップか落ちても2番、3番だったそうだ

しかし極貧生活ゆえ祖母から勉強より働いて欲しいと強制され、大人も3日で根をあげる浜の砂利運びをして日銭を稼いだ
晩年腰痛に悩まされ続けたのは、その時の無理が祟ったからと言っていた


高校進学もままならない経済状態だったが、教育委員会の人が訪ねてきて、「成績優秀なのでぜひ高校に進学させてやって欲しい。市から学費は出します。」といわれた祖母は、「息子の稼ぎがなければ一家は餓死する。高校へ行かせる訳にはいかない」と断固拒否で、それならと教育委員会の人が、夜間高校に進学させる事を条件に祖母から父を高校に行かせる許可をとった

しかし昼間はキツイキツイ浜の砂利運び。その後夜間高校に通う生活は厳しく、それでも高校卒業の資格はきっと何かになるだろうと頑張っていたそうだ

ところが市の方も内部事情が変わったのか、途中から学費を出してくれる話はなくなってしまう
父も体力的にキツかったので夜間高校は中退を余儀なくされた

そして昼も夜も休みなく働く生活になった

必死に働いて、働いて、家族を10代の頃から養ってきた
その後どうやって学費を貯めたのか、自分には学歴がないからと数々の資格を取ったらしい


レントゲン技師の資格を取って、金沢の病院に勤めている時に看護師として働いていた母と出会って結婚にこぎつけた
その後親戚の会社に勤める事になり、上京した

父の人生は仕送り人生で、社会に出ても給料の大半を家に送金し、2人の妹を高校に行かせた


すぐ下の妹(私の叔母)は高校卒業後市役所に勤め、結婚して2人の男の子をもうけたが、長男6歳、次男3歳の時に乳がんで亡くなった。33歳だった
その時の父の落胆ぶりは相当なものだった
父は妹の為に丸山ワクチンを求めて仕事の合間に奔走し、勤務先から忠告を受けた事もあったらしい
私を一番可愛がってくれた叔母さんだった

父が取った資格はクレーン操縦とか、簿記とか、ジャンルを問わず色々持っていた
またいつ収入が途絶える事になるかという不安から資格を取り貯めたのだと言っていた

母との結婚は難儀を極めた
母の母(私の祖母)が猛反対し、父の勤務先まで娘と別れろと怒鳴り込んできた事もあったらしい
理由はやはり祖父のことで、あまり良い噂が聞かれなかったからと後年話していた
でも父はその祖母と晩年2人で旅行もしている
父の、母を、家庭を思う気持ちが通じたんだと思う

そんな事もまるで笑い話の様に話していた父は、今にして思えば戦争で生死を潜り抜け、父親から見捨てられるという計り知れないショックと、極貧生活を乗り越えてきた経験があったからだと思う

父は、とにかく幸せな家庭が欲しかった
それだけを切望していた
だから母との生活は極楽だったと言っていた

とにかく毎日違う食事が出てくる
二人の子どもにも恵まれて、いっそう働き甲斐があったと話していた

レントゲン技師の頃、家庭がせめて普通なら医者になれたかもしれないと思っていたらしい

時代は学歴社会となり、夜間高校中退の父は色んな意味で悔しい思いもあったと思う

私が高校入学時に出す書類に、父親の職業のみならず学歴まで書く欄があって父はたいそう憤慨していた
父は定時制高校の「定時制」は要らないよな?と舌を出しながらニヤッと笑って言ったことがある
たぶんその調子だと中退ではなく「卒業」と書いたかもしれない(^^;;

父が30代で世田谷に家を建てた時、私たち子どもは祖父は戦死したと聞かされていたのに、急に今度お父さんの方のおじいちゃんが来るからね、と母が言うので訳がわからなくなった

その頃小学校低学年の私は父と祖父の会話のよそよそしさをはっきりと覚えている

祖父は丸顔の優しい人という印象だった
父は他人行儀な話し方をしていた
人見知りの弟が祖父のアグラにスポッと収まって嬉しそうにしていた
弟は家族で唯一丸顔で、誰に似たのか?と不思議だったが、祖父の顔を見た時に出どころがどこかすぐに理解した

父が後で話していたのは、家庭を持って、家も建てて、アンタが捨てた息子はアンタがいなくたって立派にこうやって生きていますよと知らしめたかったそうだ

勝利宣言をしたかったんだと思う


祖父はその未亡人とには子どもを作らず、成さぬ仲の3人の子供はちゃんと高校や大学までやらせたそうだ
父にしてみればこれほどの裏切りはなかったのだろう

それきり私は祖父と会うことはなかった

そして祖母は、そんな祖父の帰りを一途に待っていたフシがある
気性の激しかった自己中な祖母にも、祖父に対する愛情はあったのかもしれない

祖父が88歳で亡くなったと聞いて、祖母は認知が入っていたのに「ほうか〜」と言って落胆した様子だったと母が言っていた
なんとその2ヶ月後に祖母は亡くなった

人の一生ってなんと深淵な、なんと不思議なものだろうと思う


父はその後も家族のために働いた
お母さんの作る飯が美味すぎて糖尿病になっちゃったよ、と冗談を言っていたが、その糖尿病が原因で足が壊死をおこし、それによって心不全で亡くなった

かつてキンキンこと愛川欽也さんが、「オレの夢はね、畳一畳分の餅にかぶりつく事だよ」と言っているのを見て父が「よく言った!オレも同じだ」と手を叩いて喜んでいた
共に昭和9年生まれらしい

父は子煩悩で、母にしつこ過ぎるとたしなめられるほどだった

自分勝手で、空気を読むなんてことは全くなく、生きたい様に生きたのは、それまで家族のために必死だった反動だと思う
子煩悩なのも自分が父親に可愛がってもらいたかった思いからなのかなと思う


私の3人の子どももとっても可愛がってくれた

意識がもうろうとしている、亡くなる5日前に娘が結婚したよと話しかけると、うっすらと目を開けて「おめでとう」と言ってくれたと娘が感激していた

娘が「おじいくんにはひ孫もいるんだよ」と言うと、うなずいたそうだ
それを聞いて安心した


あんなに父親より一日でも長生きしたいとそこに執念を燃やしていた父だったのに、祖父より一年早く逝ってしまったと残念に思っていたが、母が言うには祖父は数えで88歳だったから満年齢だと87歳だということで、フタを開けてみると父の方が長生きだった

人生の最後の最後で大どんでん返しがあるなんて父らしいなぁと思ってしまう


今日は父の四十九日です
父の供養のつもりで書きました
私は顔も性格も父にソックリと子供の頃から母に言われ続けていたので、たぶん父とは前世で強い縁があったんだと思います

実はアトピーも喘息も脊柱管狭窄症もすっかり父親ゆずりです


何か大きな視野で私が出来ることが明らかになっていく予感がしています

写真は結婚前後の27歳頃の父
「お父さん、高橋秀樹に似てるってよく言われるんだよ、お前もそう思うか?」と自慢げだった父の声が聞こえる様な気がする

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