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「閉じ方」について

先週、或るデザイナーのオンライントークを聞いた。

テーマは「起業×デザイン」。

このテーマで、どのような話が展開されるのだろうか?

期待するほどではなかったが、少し気になった。

ゲストスピーカーのデザイナーは、デザイン業界ではもちろん、小売店の経営などもしていて、一般にも広く知られる人物だ。

自身の考えを文章にまとめるのが巧い人で、著書もあるし、有料メルマガを配信したりもしている。

私も5年ほど前に1年弱、そのメルマガを購読していた。

モノ書きが本業ではないのに、その時々で考えていることを長文で配信していた。

彼がふとした日常に見出す気づきや、そこから生まれるアイデア、考えだけに留めず次々と試みられる新たなチャレンジに、当時の私は刺激を受けていたた。

そこそこ熱中していたのだが、業務が佳境に入りタイムリーに読めなくなってしまい、結局購読を止めてしまった。

そのような個人的経緯があったため、私の中では勝手に「過去の人」になっていた。加えて、彼の活動がメディアで取り上げられることも減っていたので、主催者が今敢えて彼にフォーカスする理由が知りたい、という気持ちもあった。

トークは、彼がデザイナーという職能でありながら、小売店を経営するに至る経緯から始まる。

大量生産される商品に伴って、それらのためのデザインも瞬間風速よろしく消費されるサイクルに違和感を抱いたのがきっかけだ。新たなデザインを世に送り出す代わりに、既に在る優良なデザインに光を当てることを使命とすべく、デッドストック商品集めたセレクトショップを開く。初動は苦労が伴うも、次第にファンをつけ、小売店舗以外にも同様の思想を反映させ、活動領域を広げる。海外出店なども果たし、ブランドは一定の市民権を獲得し、現在に至る。

前半は、彼を知っていれば、誰でも知っているお馴染みの内容だったが、本人の肉声で、その時々の想いやエピソードを交えながら語られたことで、彼の立ち上げたブランドの沿革をコンセプトを基軸に改めて振り返ることができた。

彼の思想は一貫している。次世代に引き継がれるべき良質なものごとを、彼の視点を通して紹介することで、「再価値化」するというものだ。

このコンセプトが起業時の全てであり、いわゆる事業計画などは立てていなかったようだ。

ちなみに、彼はデザイナーでありながら、企画素養に長け、それを自覚している人だ。

そんな彼だからこそ、自身の事業を「商売」とは考えず「企画」として捉え、自身のコンセプトが相手に届くことをひたすら追い求めれば、収益はその結果として必ずついてくると信じていたという。

確かに。コンセプト・オリエンテッドは成立し得るが、レベニュー・オリエンテッドというのはあり得ない。事業における要は、数値化できないコンセプトなのだ。収益計画が無くて良いわけではないが、事業のはじめに何ありきかというと、数字ではないことは確かだ。

トークの後半、インタビューアーがデザイナーに問うたのが「今、注目していること」。大雑把な質問だな、と思っていたら、デザイナーは即答する。

「閉じ方」。

閉じるって何を? まさか店舗経営をやめるつもりなのか? と予測するオーディエンスに、彼は解説する。

インターネットの普及→グローバル化の加速→情報のオープン化と拡散。

大量の情報が凄まじい勢いで世界中に流通した結果、「あらゆる物事に奥行きがなくなり、均質になり、味わいが減退した」。

こんな時代だからこそ、あえて繋がりを限定した閉じた場をつくり、失われた深さを取り戻したい。不便を乗り越えて訪れる人々に本気で向き合える環境をつくりたい。

こうした方向を「閉じる」という表現を使って彼は説明した。

平準化して生気を失った世界に温度を取り戻す方法として、個人的には共感できる方向性だった。

デザイナーの言う「閉じた状態」は、間口を「絞った状態」のことだ。

これはつまり「排他」ということなのだろうか?

共感した手前「排他」と同義ではイヤなので、相違点を探した。

異なるのは目的ではないか。

「排他」は「仲間意識醸成」が目的だとすると、彼の言う「閉じた環境」は「特定の価値観の共有」が目的になるのではないか。「排他」は「人間関係」自体が焦点になるが、「閉じた環境」では、人間関係は付随的なもので、焦点はあくまで価値観などの「考え方」なのではないか。

デザイナーが「閉じた環境」の具体例として挙げたのは「看板を出さない飲食店」だった。

その話を聴きながら、ある料理店を思い出したした。

シチリア料理を出すそのレストランは、以前はオープンな営業で、グルメ情報サイトにも掲載されていたし、予約さえ取れれば誰でも入店できた。10人入れば満席の小さな店舗は、どの最寄駅からも徒歩20分以上かかる不便な場所にあった。住宅街に紛れて見落としそうな小さな店の中は、いつもお客さんでいっぱいだった。グルマンたちの溜り場として有名で、夜遅い時間には芸能人を見かけることもあった。

料理は至ってシンプルだったが、他店では得られない満足感があった。コスト・パフォーマンスが異常に高かった。一度訪れると、必ずまた来たいと思わせる引力がある店だった。あらゆる魅力の源泉は、オーナーシェフの女性の信念にあったのだと思う。

ところがある時、オーナーシェフの意向で、懇意の顧客にしか住所を明かさない「一見お断り店」になってしまった。これは相当残念だった。

ただ一方で、店主の想いや価値観を尊重したい、とも思った。

最近、偶然見つけた彼女のインタビュー記事を読んで、営業形態を変更するに至った当時の彼女の状況を初めて知った。非常にストイックな料理人なので、常に自分が納得したクオリティの料理を、適切なタイミングでサーブし、さらにそららを適正な価格で提供することをモットーとしていた。料理人としての信念を崩さずに、商売の採算を合わせようとして、肉体的・精神的な無理をして、最後の方は料理が全く楽しめなくなってしまったという。自身のコンディションを立て直し、改めて料理に向き合うために、営業形態を変更。紹介制にして1日の人数を限定し、アラカルトもやめてプリフィックス形式に変えたとのことだった。

チャンスがあるのであれば、もちろん行きたい。けれども、意外なことに、自分の欲求が叶わないことを嘆く気持ちより、彼女がベスト・コンディションで料理に専念できていことを嬉しく思う気持ちの方が大きかった。

オンライン・トークでデザイナーが語った「閉じた環境」における訪問者の目的は、そこに在る「コンセプト」の享受・共有・発展などなのではないか。仲間を求めてやってくるのではなく、飽くまでコンセプトを実態として体感するために訪れるのではないか。

環境媒介となるコンセプトに反応しない人からすれば「閉じた環境」になるのかもしれないが、意思を持って訪れる人にとっては、間口は小さくても深く広がる環境として映るに違いない。

彼の思想は本当に一貫している。思想が一貫しているからこそ、時代と共に、思想の表出である活動形態を見直すのだ。時代の変化を察知するや、現状表現に固執せず、時代に即した新たなコンセプト伝達手法を模索する。企画者でありデザイナーであるというのはこういうことか。職能として身近なだけに、身が引き締まる思いがした。

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