卒制のおまけ/ひとりで海を見に行った話
便利になったがゆえに作業数が増えたり、SNSで様々なことに常時触れられるようになったりしたことで、「自己と対話する時間」を取らなくとも過ごせるようになった2021年。
日々の喧騒に身を任して流れに従うだけの人もいれば、多様化したインプットによって考えることを放棄している人もいる。
私も、その流れに飲まれてしまっている一人であり、様々なことを理由に、自分を見つめ直すことから逃げてきた。
SNSの普及や多様化したインプットにより、自己と対話する時間が少なくなることで、愛着や集中力の分散が起き、感情やおもしろみのない人間が増えていってしまうのではないだろうかという危惧がある。
そういった中で、ゆっくりと自然の中で自己と対話する時間を取りたいと思い、海を見に行くことにした。
実際、私は何者であるのかといったような壮大なテーマの解はもちろん出なかった。
一方で、香川出身の私にとって、これまでは日常的であった「海を見る」「海を見に行く」という行為が、海に近づくにつれワクワクが増し、まるで遠足前日のような期待で満たされた気分になるとは思いもよらなかった。
あの日、江ノ島駅から江ノ島までの道のりをひとり、風を切るようにランウェイしたことは一生忘れないと思う。
そして、実際に海と対峙し、わたしは、「近くで見る海」より「遠くから見る海」が好きだということが分かった。
「遠くから見る海」は、波が無く(無いように見え)、穏やかで、鮮やかな青で満たされ、広域で広がっていた。
一方で、「近くで見る海」は、波模様が鮮明に見え、海辺で行われる人々のストーリーが多方から耳に入り、深い紺色が続き、詳細に目の前で展開されていた。(どこか東京の人間関係にも似ているような気もした。)
繋がっているであろう海でさえ、匂いや色などの性格がこんなにも違っていたのだ。
こんなことは当たり前かもしれないが、その事実さえ見逃してしまうような現代の日常は本当に豊かなのだろうか。
「海を見に行く」といったような時間が日常にはなかったとしても、そういう時間の選択肢があるという事実を知っておくことが重要になってくるのではないだろうか。
自己と対話すると言いつつも海を介して考え感じた時間は、こんな時代だからこそ、全人類に必要な気がする。
この体験を、海としてでは無く、建築や空間として、現代人に触れてもらえる機会をつくることは可能だろうか。
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