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歯に衣を着せられぬdiary

 バイトから帰宅して肉と野菜とシーフードのすべてが入ったカレーをつつきながらとんでもないことに気がついてしまった。

 それは「私の能動的な行動のすべては負の動機に基づいている」ということである。

 もはや逃げ場はないのかもしれない。どこもかしこも負の動機だらけで化けの皮を被ってでも侵食してくるのだから。
 表立って動き回っていると自信家と見られてもおかしくはない。しかしこれは欠けた部分を自ら充たすことを意味するのである。そして自分を大きく見せたいのとはまた少し違う。先手を打つことによって、侵されたくない領域にキープアウトのテープを張り巡らせることができる。積極的に責任を負うことで、漠然とした無力感から逃れることもできる。基本的には誰のことも信用していないから、さっさと動いた方が効率的に物事を進めることができる。場がしらけて「誰のせいでもない」という名の押し付け合いが始まる空気が気持ち悪くて仕方がない。口では「やってくれてありがとう」と言われても、それは「今度は私も協力するね」とはイコールではないし、自分の礼儀を疑われないための免罪符に過ぎない。そしてまた「具体策を示してこないということは今後も謝礼のみで手打ちにしようとしているな」と思うばかりで、少し冷めた目で見てしまう。しかしながら、見返りを求めないことが世間的には美徳であり、恩着せがましく詰め寄るのも面倒になって、巡り巡って何食わぬ顔でお膳立てするくらいが一番楽なのである。「女の子はニコニコ笑っているだけで良いんだよ」などと言われても、それでいつまでも愛してもらえるなんて呑気なことは到底考えられる体質ではないし、そんな不安定なものにしがみついてはいられない。可愛げがなくたって仕方がない。この姿のまま愛されたいから、私の核を見てほしいから、歩み寄らずにはいられない。添え物みたいにさり気なく存在することは、どうやら不可能らしく、すべてを誰かに預けることなんて恐ろしくてできやしない。
 だから私は補い合う関係にとてつもなく憧れる。どちらかがどちらかに体重をかけるでもなく、自分としての存在意義も果たしながら自然に立っていられる存在。互いに手探りでありながらも、そっと委ねることができるのなら、誰にも邪魔されずにしっかりと手を組むことができるだろう。わかってもらうことを諦めて初めて、わかりあうことができるということではないだろうか。

 動機が何であれ別に間違ったことをしているというわけではないのだから、そう塞ぎ込むこともない。ただ考えているだけ。そして派生して少し悩むだけなのだ。それをあげつらって、病んでいるのなんのと冷やかされる筋合いもないし、その見通しの甘さで切り抜けていけるのなら、身のこなしが上手な証拠だ。正直言って、私自身もムラが多い人間であるから、あるところでは無鉄砲であるし、あるところでは用心深かったりもする。

 なんでもかんでも強い言葉で言えば良いというわけでもなくて、こうやって毎日毎日ろくでもないことを考えながら暮らしていくのである。

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