見出し画像

学問として昔ばなしを研究するもの

僕が、どういうことをしている人物かどうかを説明することは、簡単にできるとおもうが、では、なぜそれを好み、そして研究しているのか?については、これから書き記すことを読んでいただく方が早いかとおもう

「むかしむかし、あるところに」で始まるのが昔ばなしである。
これを耳にした聴き手、あるいは目にした読者は、直感的に「お爺さんと、お婆さんが住んでいたんだな。」と思い浮かべてしまうほど、この「むかしむかし、あるところに」というワードは人々の心の中に根付いている。

しかし、この法則を裏切ってくれる有名な作品があることをご存じであろうか?
学問的なことは知らなくても、昔ばなし、童話が大好きな方であればご存じかもしれない。
イタリア の作家「カルロ・コッローディ」の作品「操り人形の物語 (Storia di un burattino)」現在広まっているタイトルに言い換えると「ピノッキオの冒険」の書き出しはこうである

むかしむかし、あるところに・・・
「王様があったとさ!」と皆さんは仰るでしょうね。
ところが大間違い。むかし、むかし、あるところにひとつの「木切れ」があったのです

当時、この本を手にし、冒頭を読み進めた少年少女達の驚きは、計り知れなかったことであろう。いや、大人でも同じように度肝を抜かされたことであろう。なにしろこの物語は、粗末な木切れが主人公なのである

しかし、パターン化され、マンネリ化していたであろう 昔ばなしや童話の冒頭(専門用語では「発端句」と呼ぶ)に風穴を開けたことは事実であろう。
なにしろ、王様でもなければ、お爺さんでもお婆さんでもない。利口な少年でも、悪知恵の働く少年でもない。貧しい少女でも、金持ちだが性格の悪いお姫様でもない。木切れなのだ。誰がこんな物語が150年近く経った今でも、いくらかの変容を遂げているとはいえ、愛される作品になると想像しただろうか?

この発端句を集めた著名な方がいる。一度は名前を聞いたことがあるでしょう「柳田 國男」である。
(僕はいつも、彼の偉人の名前を呼ぶときに「やなぎだ」と言ってしまうが、正しくは「やなぎた」である)
柳田 國男 と言われ、真っ先に思い浮かぶのが「遠野物語」であろう。岩手県遠野地方の逸話・伝承などを書き記した説話集である。しかし、柳田は民俗学だけを研究していたわけでない。日本の昔ばなし研究にも精力的に取り組んでいる。その一つが、この発端句の収集である。

著書「日本昔話名彙(にほんむかしばなしめいい)」によれば

・昔々あった
・ざっと昔、その昔
・とんと昔があったけど
・昔々、うんと昔

といったものが記されている。え?ちょっと表現が変わっただけで、一緒じゃないか?まぁ、たしかにそうだ。では、こんなものはどうだろうか

・なんというか、うん、横行話をしようじゃないか

僕が知っているものだと、こんなものもある

・これは、あったことか、なかったことか

これらも発端句である。ちなみに、世界各地の昔ばなしの発端句はどうなっているか?
書棚から手に取った、世界の民話 地中海篇 を見てみよう

・むかしむかしあるところに

の発端句で始まる物語が、感覚的に全体の9割をしめているだろうか?
しかし、日本の昔ばなし集では目にしないようなものもいくつかある。

・では、始めようか。とんとむかしである。

聴き手に対し「さぁさぁ、始まるよ。」と、語り手が言った一言が、そのまま発端句になってしまった面白い事例だと思う。
こんなものもある

・ある町に、と、言っても私はその町の名前をもう覚えていないのだが、むかし、古い小さな教会があった。

昔ばなしの中には、土地を限定した話というものがある。こういった話は「伝説話」と呼ばれるものに分類されるのだが、この語り手はその重要な部分を忘れてしまったといっている。

「とんだうっかりさんだ」「その土地の話であれば、しっかりと覚えておくべきではないか?」と思ったかたもいるかもしれない。いや、昔ばなしにおいては、これでいいのである。
そもそも、この発端句というもの、学術的な面から見た場合、一定数の意味があると考えられている。

というのも、昔ばなしというものは、とても面妖な話が多いのである。
妖怪やお化け、巨人に悪魔、はたまた、イエス様やマリア様、観音様が登場したかと思えば、人の言葉をしゃべり、また、人と会話をする動物達など、現実的には起こりえないような者たちとの物語である。

そういったことは現実的にあったのだろうか?巨人や人の言葉をしゃべる動物たち、彼らは現代科学という物差しで測ったら0だと断言できよう。だが、神のお告げや妖怪、悪魔、そういったモノはどうだろうか?限りなく0かもしれないが、0と言い切ることは難しいのではないか?
それこそ「むかしむかし、あるところに(居た)お爺さん」の、そのまたお爺さん、そのまた また またお爺さんの時代だったらどうだろうか?

そう、発端句というのは、つまり、そういう意味なのである。

今から話す物語というのは、むかしむかし、途方もなくむかしの話なのである。そのむかしが、どれくらい過去の昔かは聴き手に任される。ある人にとっては「ひいおじいさん」くらいの昔かもしれない。またある人にとっては、自分の家系の一番最初まで遡るほどの昔かもしれない。だけど、どれもともに「むかしむかし」なのである。
昔々の話を語る際、そこに若い生娘がいてもいいのだが、やはりそこには、山で柴刈りをするおじいさんと、川で洗濯をしているお婆さんがいてほしい。というよりかは、かれらほど「むかしむかし」というワードが似合うものはいないからである。

「昔ばなしの学問」というのはこういうことである。
ただひとつの「むかしむかしあるところに」という発端句が、どうして日本だけにとどまらず、世界各地で同じような観測されるのか。
それは、その物語が嘘か本当かはわからないが、「むかしむかしあるところ」で、その時代の語り手たちによって語られ、そして現代まで語られてきたという証であり勲章なのである。

だから、語り手が町の名前を忘れてしまってもしかたがないのである。逆に言えば、その物語というのは、町の名前を憶えていられないほど、もしくは、今は存在しないくらい「むかしむかし」から語られていたお話だということである

話が長くなってしまった。同じく世界の民話 地中海のなかで、一番飛びぬけて、僕の心をワクワクさせた発端句を紹介しておわることにしよう

「おばあちゃん、マリーコンスタンティオスが村一番のしっかり者のマヌエル・アトゥルリドミヒァリスと結婚するのを知ってる?」
「まあ、なんてこったろう!おまえ、それは確かかね?」
「ええ確かよ、マリーのおばのペラギアから直接聞いたのよ」
「子どもたちよ、あの娘にはそう定められてあったんだよ。神様がお書きになったことを人間が消すことはできないのさ。まぁお聞き。おまえたちにおとぎ話をしてやろう。全能の神様の力がどんなに強いものかわかるだろうから」

これが発端句?単なる会話では?と思った方もいるかもしれない。
そう、たしかに単なる会話なのだ。しかし、発端句の役目は「これから〇〇な物語が始まるよ」という合図なのである。
つまり、これからおばあさんは「マリーコンスタンティオスとマヌエル・アトゥルリドミヒァリスが、なぜ結婚できるのか?その理由の物語をはじめるよ」という合図がされたのである。
さぁ、なぜ彼らは結婚できたのか?おばあさんが語る物語に、私たちも耳を傾けることにしようじゃないか


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?