評論などくだらない #2「言葉づかい」

評論など本来くだらないものだ。
人がどう考えようと自分自身に明確な見方、考え方があればそれは素晴らしい事だし、評価されるべきだ。
しかし、時として私たち人間はさまよう生き物だ。
迷って、間違って、新しい道を見つけてはまた歩いていく。
そういう人生に道標を自分で立てながら歩いていく際に必要になるからこそ、評論というものは存在している価値があるのだと私は思う。

もう一度言う。評論などくだらない。
だけどやるのだ。

今週は中日ドラゴンズの応援歌に関する報道が話題に上がっている。
筆者は楽天ファンであるが、野球自体が好きであるし、球場で聞こえてくるファンの応援歌というものは選手のみならず応援する側のテンションも上げてくれる。

報道によると中日ドラゴンズの与田監督が私設応援団に対し、応援歌の含まれている「お前」という歌詞が教育上ふさわしくないのではないか?ということで「お前」の部分を選手名に置き換えてもらえないだろうか?と申し入れたというものだ。

前述したように球場で聞こえる応援歌は時として選手のみならずファンのテンションもあげるものであるし、与田監督も自粛してほしいという旨で話した訳ではないと明言している。

この問題に関しては大きく分けて2つの要素が含まれている。
一つは果たして「お前」という歌詞が応援歌としてふさわしいのかどうかということ。
もう一つは「お前」という歌詞が本当に教育上問題なのかどうかということ。

一つ目の応援歌にふさわしいかどうかについては現役選手の中では「お前」と呼ばれることに対して違和感を抱く選手もいるようなので、そもそも選手の活躍を願って歌う応援歌というものの性質を考えれば、選手名に置き換える事で違和感がなくなるのであれば解決策としては妥当なものだと言える。

私が提起したいのはもう一つの要素。
教育的な観点からみた「お前」という言葉の存在についてだ。

私は母親からとても厳しく言葉使いを教育された子供であったが、なぜ母親がそうしたかといえば、私が小さい頃に汚い言葉使いをしていたからに他ならない。

本題に戻ると、確かに「お前」という言葉から受けるイメージは良いものではないだろう。だがこれを教育上良くないと子供の耳に入らないようにするのが正しい教育の在り方であろうか?
筆者が考える子供の成長というものは、いろんなものを見て、聞いて、吸収して、その中から大人の教育的観点から取捨選択を繰り返し、最終的に自らの考え方や生き方を築き上げ、自我を形成することにあると考える。
言葉使いの教育に関しても基本的には同様のことが言えると思う。
良い言葉も汚い言葉も身の回りに溢れている中で、大人に注意されながらその言葉が本当に自分が使うべきものなのかどうかを様々なケースで判断できる能力を養っていくのである。


私のまわりには小さな子供を抱える親となった知人もいるし、教育の現場で日々教育というものと向き合う教師もいる。
彼らの話の中で子供を育てるということの大変さには一定の理解はあるつもりだ。
だが子供を育てるということは「生きる」ということと同じくらい重みのあることだと思う。
日々トライアンドエラーを繰り返し、子供が将来生きるのに困らないような大人に育って欲しい。これは多くの親の共通認識であろう。

しかし、先回り的に子供の耳に入るものを大人の調整済みの言葉だけにしてしまうと、子供は耳から入った言葉をそのまま認識し、その言葉をどういうときに使ってよくて、どういう時に使ってはいけないのか?という選択の仕方を学ぶ機会を失うことになる。

「必要悪」という言葉があるが、この世の中にはあることがデメリットであるものでも、そこから得るものも大きいが故に消えることなく存在しつづけるものもある。

少し本筋とは逸れるが、子供の頃に祖母の家の近所に働かず日がな一日お酒を飲んで過ごしているおじさんがいた。
大人たちはみんな、その人と子供が触れ合う事を嫌がったが、子供は子供でちゃんと分かっていて、感覚的に大人が嫌がるのでこのおじさんと遊ぶのは良くないんだろうなとは思いつつも、そのおじさんが飼っている猫をとても大事にしていることから生き物は大切にしないといけないという大事なことを学んだ。

教育というものは難しい。
それはそうだ。
一人の人間を育てるのだもの。
だがそこに利便性のような概念を取り入れて近道することが果たして正解なのだろうか?
筆者にはそのようには思えない。

子供の頃に怒られるのは本当に嫌だったが、いまになって思えばそういう親とのやり取りの中で学んだことはたくさんある。
そういう実感こそがまた自分たちに子供が出来た時に活きてくるのだと思う。

最後にこれだけは述べておく。
筆者は「お前」という言葉がいい言葉とは思わない。
選手が心地よく受け入れられないのであればほかの言葉で応援すればいいし、子供がそういう言葉使いをしたら親は叱って使わないように正すべきだ。

しかし教育上の理由という口なじみのいい言葉で全ての問題を現実から取り除いていくと、子供はトライアンドエラーの機会を失い、自分で考えることをしなくなる。

排除による解決は時として怠惰を生み出す。
選択の余地を残した教育というものの方が、より応用がきく大人を育てるのではないだろうか?
筆者はそのように思うのである。

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