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正義に基づく行動は心が痛むものでなければならないのかも?

久々に、政治の話ではなく個人的な話。
私は捻くれ者に共感して生きて来た日陰者です。だから時として嫌われ者に共感します。

その為か、仕事で子どもの、一瞬の暴言や暴力行為に気付かず見逃してしまうことが、恥ずかしながら良くあります。

教育現場で働く者としてこれは宜しくないので、見逃すまいと思って過ごすうち、今日は、ある子の暴力行為を捉えることが出来たので、すかさず「今何したの?」と止めました。

ここから「された人は嫌な思いをしたんだよ?」「あなたが私に同じことをされたらどう?嫌じゃない?」等々、お説教したり振り返りをさせ、相手に謝らせたりするわけですが、私はこれも大の苦手です。勿論、頭から「あなたのやったことは悪い」とだけ言うのではなく「どうしてやったのか」「何か嫌なことがあったのか」「次に同じことがあったら今度はどうするか」分からなければ「言葉で伝えよう」とやり方を教えたり、その辺りは寄り添って優しく対話して行きます。そうすると大抵は振り返りが出来て、相手にも謝る、という風に事が展開します。ここまで持って行けるかいつもハラハラ。

それは置いておいて、テーマに戻りますが、私たち大人は子どもという弱者相手に、簡単に正義の剣を振りかざし、独善的な教育に陥り易いのであろう、と常々思う。

国民を苦しめる政治家などの巨悪には、怒りの鉄槌をもって立ち向かうくらいでも足りないかも知れない。が、それでさえ、冷静さを欠いては元も子もない。

増して、無抵抗の子どもの不正を正すに当たっては、厳しい顔を見せつつも、内心では常にその子に寄り添う共感をもって接することを忘れてはいけないと、今日改めて感じました。

という具合なので、たとえ暴力行為に際しても、強い態度で止めに入るような事もまた、相手を傷付けるのではと、本質的にそういうのが苦手なんですが、まああまり見逃すのは単なる事なかれ主義に過ぎないので、これからも頑張ろうと思うけど、決して得意げに正義を振りかざす境地に陥ってはいけないと感じています。

オマケですが、こういう情け無い自分なので、人間関係というと、浅く仕事仲間、以外はプライベートの親友は趣味が合う人のみ、だったんですが、今日のように暴力に対し毅然と被害者を庇うことにより、被害者の人から心なしか私への信頼感が増した感触があったりしたので、不正に立ち向かえる人はこういう人間関係の世界に居るんだなぁ、と、違う世界を垣間見た思いでした。いやお前の個人的心境などどうでもいい。何のこっちゃですが。お粗末様でした。

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