![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86811236/rectangle_large_type_2_7abe09c9d9a6201ae482b548dac183c7.png?width=1200)
【漫画「悪魔くん」研究レポート】魔術「エロイム・エッサイム」とはなにか【第1回】
「エロイムエッサイム エロイムエッサイム 我は求め訴えたり!!」
の呪文でお馴染みの、水木しげる原作漫画「悪魔くん」。
「悪魔くん」は一万年に一人現れる救世主・悪魔くんが、魔法陣から強大な力をもつ悪魔を召喚し、その力をもってこの世を万人が幸福となる千年王国とすべく奮闘する物語であり、冒頭で紹介した「エロイムエッサイム」の呪文は、その悪魔召喚の際に使用される呪文である。
「悪魔くん」は水木しげる原作作品を中心とし様々なバージョンが存在する。
主人公が「一万年に一人現れる救世主で、魔法陣から悪魔を召喚する」ということは共通しているが、媒体ごとに主人公が全く異なり独立したストーリーが展開されるマルチバース(パラレルワールド)的側面がある作品群なのだ。
便宜上「悪魔くん」というタイトルを冠する作品を総称し「悪魔くんシリーズ」と呼ぶことにするが、そもそも元祖の「悪魔くん」は水木しげる大先生が貸本漫画家時代に、聖書、世界の神話・伝承・オカルト文化をもとに構築した作品であり、作中登場する魔法陣や呪文の大半は、実在する西洋魔術書「グリモワール」から引用されているものであることが判明している。
そして、その神秘的要素は「貸本版悪魔くん」以降のシリーズにも脈々と受け継がれているのだ。
そんな様々な知識によって構築された水木作品であるが、作者本人の「知」を垣間見るにつれて筆者はこんな疑問を抱くようになっていった。
「悪魔くん」に使われている魔法とは、そもそもどのようなものだったのか?
_______と。
私が本稿を書くに至ったそもそものきっかけは、2022/8/31発売の『怪と幽vol.11』特集「悪魔くんを求め訴えたり」内に掲載された『「悪魔くん」の魔術と水木先生』という鏡リュウジ先生のインタビュー内容に感銘をうけたと同時に、本インタビューにて言及されていた「エロイムエッサイム」という呪文の出自に対し疑問に思った点があったからである。
というのも、水木しげる大先生のファンである私は以前から趣味が高じて「悪魔くん」に関係あるとされる「西洋魔術書(グリモワール)」を辞書片手に独自翻訳する作業を内々に行なっていた。
一応筆者は、原作とメディアミックスを含めた現状のシリーズをほぼ完全網羅している人間であるため、「西洋魔術書(グリモワール)」の翻訳を行う際も、シリーズ単位での調査をおこなうために、呪文「エロイムエッサイム」以外の魔術・魔法陣(魔法円)の出典についてもリサーチを行なっていた。
しかし先の特集を読んで
「エロイムエッサイム」という呪文単体でも十二分に議論考察の余地があり、またこの呪文は果たしてどこからやってきて、そしてどのようにして「悪魔くん」という作品に取り入れられたのか。元々はどんな目的のため作られた呪文だったのか。これらを丁寧に紐解くことで更なる発見が期待できるのではないか?
という意欲に駆られたのである。
水木しげる大先生の作られた多くの作品は、キャラクター・ストーリーもさることながら、その物語を構築するに至るまでの調査に多くの時間を割いている。
そんな大先生の興味関心ある分野へのリサーチの余念のなさが、今もなお水木しげる作品が一般層から識者まで多くの人を惹きつける要因の一つになっていると断言して良い。
歴史・民俗・神話・伝承・宗教・哲学……水木しげる大先生が通過したであろうありとあらゆる分野から水木作品を透かし見ることは、大先生ご本人そして水木作品への理解に至る近道ではないかと筆者は考えている。
筆者がこのレポートをこのような形で共有するのも、多くの方に水木しげる作品の趣き深さと知識から作品をみる楽しさに気づいていただき、更には貸本漫画家時代より古本屋に足繁く通うなどの余念ないリサーチとその調査結果をもってして作品構築を行なっていた水木しげる大先生のその類まれなる努力と実力を多くの人に僅かでも知ってもらいたいが為である。
本稿を公開するまでの間に、様々な方からの助力や情報提供を頂いた。
私の得意分野はどちらかといえばコンテンツ文化史研究であり、本稿もそういった比較・原点探求を下地としたうえで構成されている文書である。
したがってある一定以上の裏取りおよびリサーチは行なっているものの、一部識者からみると非常に拙い見識でものを語っている可能性がある。もし、本稿を読んで間違いなどにお気づきの方がいれば是非ともご指導ご鞭撻いただければ幸いである。
また、今回グリモワールフランス語版の翻訳作成にあたり私の友人のもいもい氏(@torakichi_ktr)に多大なる助力をいただいた。 本稿は多言語に秀でた彼女の力無くしては成立しなかっただろう。ここに改めて心からの感謝の意を示したい。
★「悪魔くん」で登場する「エロイムエッサイム」の出典を探る
◇元祖「貸本版悪魔くん」の悪魔召喚呪文を振り返る
「エロイムエッサイム」という呪文が水木しげる作品に登場したのは、水木しげる先生が資本漫画家として活動していた1963年に発表された通称「貸本版悪魔くん」からである。
本作は悪魔くんシリーズの元祖作であり、全ての悪魔くんシリーズの雛形であるといえる。
太平洋電気の社長令息であり奥軽井沢の別荘地に居を構える少年、松下一郎。彼こそが精神的奇形児であり、一万年に一人現れ万人が幸福となる千年王国を作る救世主「悪魔くん」だった。そんな悪魔くんが千年王国実現のため、強大な力をもつ悪魔を召喚する。
……これが「貸本版悪魔くん」の冒頭部分の大まかなあらすじだ。
この悪魔召喚の際に使用する呪文。それこそが「エロイムエッサイム」から始まる我々おなじみの呪文である。
さてそれではここから「貸本版悪魔くん」で使用された悪魔召喚呪文を確認していきたい。
下記が400年前の魔術師・ファウスト博士の助力をかり、松下一郎(悪魔くん)が悪魔召喚を成功させた際の呪文の全文である。
エロイムエッサイム エロイムエッサイム
我は求め訴えたり
朽ち果てし大気の生霊よ
眠りからさめよ
気体より踏みいでて
万人の父の名の下に行う
わが要求に応えよ‼︎
天地万物を混乱におとしいれている
地獄の魔ものよ
陰気なる住家を立去りて
三途の川のこなたへきたれッ‼︎
「悪魔くん」で取り上げられている呪文の全文を確認したところで、早速この呪文の出典について迫っていきたいと思う。
この「悪魔くん」に使用されていた呪文は、「怪と幽」で鏡リュウジ先生が紹介していた1961年刊行の「世界教養全集20 魔法-その歴史と正体」から引用・参照されているものと考えられている。
この書籍は全集というくくりで出された一書であるが、内容はスイスの画家カート・セリグマン(Kurt Seligman 1900-1961)の出版した「呪術の歴史」(原題:「The Mirror of Magic」)を西洋科学史家である平田寛氏が和訳したものとなる。
書籍の内容は、西洋文化における呪術・妖術・宗教・錬金術・カバラなどの歴史や詳細を、関連書や美術品等から参照・研究したうえで総編したものだ。
◇「世界教養全集」の悪魔召喚呪文
では「世界教養全集20 魔法-その歴史と正体」にはこの悪魔召喚の呪文はどの様に紹介されているのだろうか。より詳しく確認していきたい。
「悪魔くん」で引用されている呪文は、該当書籍の「悪魔の儀式」の章に記載されているものだ。
本書では悪魔を呼びだし、すぐに金持になる簡単な方法として「黒色の若いメンドリの儀式」を紹介している。
まだ卵を生んだことのない黒いメンドリをつれて十字路のところにいき、その場所で真夜中にその鳥を半分に切り、つぎの呪文をとなえる。
「エロイム、エッサイム、われは求め、訴えたり。」
上記は「世界教養全集」で紹介されている「黒色の若いメンドリの儀式(黒い雌鳥の秘術)」の説明箇所の抜粋であるが、「悪魔くん」で使用されている我々お馴染みの呪文とほぼ同様の文言であることがお分かりいただけるだろう。
一方その後に続く「朽ち果てし大気の生霊よ〜」の文言は一体どこに記述されているのか。
それが紹介されているのは、同章で紹介されている「赤い竜」という魔術書に書いてある死者を呼びだすための方法の項目である。
「世界教養全集」ではこの「死者と語る大いなる術」を行使するための手順が紹介されており、その術を使う際の呪文も記載されている。該当部分のみ抜粋するが、「世界教養全集」には
最初の墓のところで、つぎのようにいう。
「天地万物を混乱におとしいれる地獄の魔ものよ、陰気なる住処を立ち去りて、三途の川のこなたへきたれ」
しばらく沈黙した後、つぎのようにつけ加える。
「なんじもしわが呼ぶ人を意のままにしうるならば、乞う、なんじが百王の王の名において、かれをわが指定せる時刻に出現せしめんことを。」つぎに巫術師は、一握りの土をとって、それを穀粒のようにまきながら、そのあいだつぎのような言葉をささやきつづける。
「朽ちはてし遺体よ、眠りから覚めよ。遺体より踏み出て、万人の父の名のもとに行うわが要求に答えよ」
と書かれている。
つまるところ「悪魔くん」作中で使用されている悪魔召喚呪文はもともと
悪魔を呼び出す「黒色の若いメンドリの儀式(黒い雌鳥の秘術)」と「死者と語る大いなる術(死者と対話する秘術)」という効果が全く違う独立した2つの呪文を掛けあわせたものなのだ。
分かりやすくするために「悪魔くん」と「世界教養全集」でのそれぞれの呪文の文言を表で比較してみよう。
![](https://assets.st-note.com/img/1663536531543-hzx2BFkxB3.jpg?width=1200)
この表をみるとより理解できると思うが、語尾や漢字などの微妙な差異はあれど双方呪文の文言が殆ど同じものである。
前述通り、「世界教養全集」の中身はカート・セリグマンの「呪術の歴史」を平田寛氏が翻訳したものなので、この呪文の文言も平田氏独自の意訳や表現が含まれたものである。このことから水木しげる先生が本書をもとに呪文を引用しているだろうことはほぼ確実といえるだろう。
しかし表の赤文字部分に注目していただきたいのだが、1箇所だけ「世界教養全集」の文言から明らか変更が加えられた言葉が存在するのがお分かりいただけるだろうか。
そう、「世界教養全集」の方に記載されている呪文には「朽ちはてし遺体よ」と記載されているにもかかわらず、「貸本版悪魔くん」では「朽ち果てし大気の生霊よ」となっているのだ。
なぜこのような変更が加えられたのだろうか。
◇変更された呪文の謎を考察する
ここで一度「貸本版悪魔くん」本編に立ち返って行きたい。
「貸本版悪魔くん」では松下一郎(悪魔くん)が魔法陣と呪文を駆使し総計二百八十八回の悪魔召喚を試みていた。しかし、その悉くが失敗に終わっており松下一郎(悪魔くん)と従者の蛙男は目下その原因を探っていた。そんな最中、研究所に舞い込んできた1羽のカラスが、悪魔を呼び出す秘術について言及するシーンがある。
以下がその際のセリフだ。
カラス:ウハハハハハ
松下一郎:? こいつ人間の笑い声をするカラスだな
カラス:ハハハ言葉だけじゃない「魔法陣」のことだって知ってるぜ
「魔法陣」は大地だけではダメなんだ
大気の中にある生気と結合させなければダメなんだヨ
松下一郎:それで悪魔は呼び出せるのか
カラス:そうだ
わしはこれを発見したばっかりにカラスにされてしまったのだ
![](https://assets.st-note.com/img/1664057969205-S2OaVS3VFr.png?width=1200)
このシーン以外にも松下一郎(悪魔くん)の元を訪れた、ファウスト博士が悪魔を呼び出す秘術についてを教授する際にも
ファウスト博士:大気の生霊を呼び出して大きな力でひきずり出さねばダメなのだ
松下一郎:あ、この魔法陣から出る悪魔をですか
ファウスト博士:そうじゃ これは体力のいる役での
地水火風のはげしい変動に耐え地鳴のような
ものすごい音と共にやってくる大気の生霊を
誘導しなければならんのじゃ
というように明言している。
このように「貸本版悪魔くん」の世界※では、悪魔召喚に必要な手順として「大気の生霊を呼び出さねばならない」という設定が明確に存在しているのだ。
(※悪魔くんシリーズは主人公ごとにストーリー異なるマルチバース作品のため媒体によってはこのシーンと設定が踏襲されていないものもある)
そも「朽ち果てし〜」から始まるこの呪文は、前出通りグリモワール「赤い竜」に記載されている「死者と対話する秘術」が雛形であり、悪魔召喚とは元々関連性がないものである。
しかしこの呪文そのものの実態は「死者を呼び出して、直接会話をする」方法であり、対象としている「者」が違うというだけで、双方「人ならざる存在を呼び出すための呪文」という共通項がある。
そのため、水木しげる先生はこの「死者と対話(するために死者を呼び出す)秘術」を「生霊を呼び出す呪文」として改変し使用したものと思われる。
では、なぜ悪魔を召喚する際に「『大気の生霊』を呼び出さなければいけない」としたのだろうか。
「大気の生霊」という言葉はどこからやってきたのだろうか。
「世界教養全集」を筆者が確認した限りでは、本書の中に「生霊」というキーワードが明確に提示されている箇所は存在しなかった。しかし一つだけこの「大気の生霊」と明確に関連性のありそうな記述を見つけた。
ソロモン王は、地獄との一切の交渉の支配人だと考えられ、彼の呪文の「原」典が数多く魔術師たちのあいだに伝わった。用語は、ローマ字で書かれたヘブライ語だった。
ソロモン王の印章は、もっとも効験のある魔法の図案だとみられ、アバノのピエトロは、これを空気の精霊を呼びだすために推奨した。それは、月がふくれるときに行なわれる。
これは書籍内で悪魔を呼び出す「黒色の若いメンドリの儀式(黒い雌鳥の秘術)」を解説した直後に、ソロモン王と悪魔の関係について言及している箇所である。
「貸本版悪魔くん」で呼び出される「大気の生霊」と
「世界教養全集」に記載されている「空気の精霊」。
語感や意味が非常に似通っているのは最早言うまでもないだろう。
また同書では「黒い雌鳥の秘術」とは全く別の、「聖なる王」という書物に書かれている悪魔の呼び出し方法とその際に使用する呪文についての詳細も書かれており、こちらは明確に関連性があるとはいかないものの少々気になる部分が存在した。以下がその抜粋だ。
「〝ルキフグス皇帝よ、不逞の悪霊たちの支配者よ、私はいま、陛下の大臣である偉大なルキフグス・ロフォカルスをお呼びして契約に署名したいと思っていますので、どうかお力をお貸しください。また、ベールゼブブ王子が私の企てを守護してくださるよう、お願いします。偉大なアスタロト大公よ、大公にもよろしくお願いします。偉大なルキフグスが悪臭を消して人間の姿と力をそなえて私のところに現われ、これから署名しようとしている同意書にもとづいて、私に必要な一切の富をお恵みくださるようにしてください。おお、偉大なルキフグスよ、今おられるところからここにきて、私に話してください。もし閣下がここにくるおつもりがなければ、私は偉大な生き神と聖子と聖霊の力によって、むりにも閣下においでいただかなければなりません。すぐにおいでください。さもなければ、私の強大な言葉の力と、ソロモンが不逞な悪霊たちと契約を結ぶときに用いた偉大なソロモンの鍵とによって、閣下を永遠に苦しめます。」
上記の呪文からわかるように、こちらの悪魔召喚の方法では「強制的に悪魔を呼び出す際には『生き神と聖子と聖霊』の力を借りる必要がある」ことが示唆されている。
そして特筆事項として挙げたいのが、先ほど紹介した2つの引用文が両方ともソロモン王に関連する記述であるという点だ。
西洋魔術書「グリモワール」に記載されている悪魔召喚関連の項では必ずといっていいほど、旧約聖書に記される古代イスラエルのソロモン王(BC 971-931)に関連する記述が見られる。
元々旧約聖書そのものに「ソロモン王が悪魔(悪霊)を使役していた」とされる記述はないが、旧約聖書の偽書(「ソロモンの遺訓」など)にはソロモン王が神の力を借りて悪魔を使役していたとの逸話が記載されている。のちに中世ヨーロッパで広まった魔術書「グリモワール」の中身も、こういった偽書に記載されている要素が多分に盛り込まれており、かの有名な「ソロモン王の72の悪魔」の逸話もそんな背景のあるグリモワールの一つ「レメゲトン」が出所であるとされている。
「世界共用全集」の悪魔召喚に関係する項目にソロモン王の名が頻出するのもこういった背景からであるが、それは「世界共用全集」を参考に制作しているとおぼしき「悪魔くんシリーズ」も同様である。
その作中代表が、召喚した悪魔にいうことを聞かせるための道具としてファウスト博士から伝授される「ソロモンの笛」だろう。
この「ソロモンの笛」のアイディアの元になっているのは、ヤハウェの命令を受けた大天使ミカエルがソロモン王に託したとされる「ソロモンの指輪」だと思われるが、「貸本悪魔くん」で登場するソロモンの笛の模様を注視すると「世界教養全集」の「第130図 ファウスト博士の魔法円と杖」とデザインが全く同一である。
![](https://assets.st-note.com/img/1664058065943-xdRMMTe6Yl.jpg?width=1200)
このように水木しげる先生は、こと「貸本版悪魔くん」に限っては書籍参照の大部分を「世界共用全集」に依存していたと推測することができる。
とすると先に議題に上げていた『大気の生霊』の文言変更も「世界共用全集」に記されていた文言を独自の解釈で読み解き、悪魔召喚術として引用・踏襲したものと考えるのが自然ではないかと考えた。
また前述した通り、「悪魔くん」では「ソロモンの笛」というソロモン王と関わりのあるアイテムが登場していることから、水木しげる先生は「ソロモン王と悪魔召喚の関連性」にも注視して「世界共用全集」を読み込んでいた可能性も高い。
ソロモン王の印章は、もっとも効験のある魔法の図案だとみられ、アバノのピエトロは、これを空気の精霊を呼びだすために推奨した。それは、月がふくれるときに行なわれる。
といったソロモン王に関する「世界共用全集」での説明や
もし閣下がここにくるおつもりがなければ、私は偉大な生き神と聖子と聖霊の力によって、むりにも閣下においでいただかなければなりません。さもなければ、私の強大な言葉の力と、ソロモンが不逞な悪霊たちと契約を結ぶときに用いた偉大なソロモンの鍵とによって、閣下を永遠に苦しめます。
と紹介されていた、「聖なる王」の悪魔召喚術の文言。
これらの記述を参照した水木しげる先生が
「悪魔召喚を行う際には、『精霊/聖霊』をよびだすことも必要である」
とし、結果「大気の生霊を呼び出す必要性がある」という設定を「貸本版悪魔くん」作中に付与した可能性があるのではないかと推測した。
「なぜ『悪魔くん』に踏襲する際にわざわざ『世界共用全集』とは異なる漢字表記にしたのか」という疑問は残る上、それについて筆者も明確に言及することはできないが、芸術的感性の高い水木しげる先生ご本人が「気持ちの良いと思う語感(もしくは表現)」に自主的に変更した可能性も視野に入れる必要があるだろう。
★魔術書グリモワールに書かれた「エロイムエッサイム」の歴史
ここまで「悪魔くん」の呪文の参考書籍と黙される「世界共用全集」の比較と変遷経緯を見てきたが、前章に記載した通りこの「世界教養全集」の中身はカート・セリグマンの出版した「呪術の歴史」である。
そしてこの本に記載されている「エロイムエッサイム」を使用する「黒い雌鳥の秘術」は、西洋魔術書「グリモワール」の「赤い竜」という魔術書に記載された悪魔召喚術である。
では、そもそも「グリモワール」とはなんなのか?
「赤い竜」とは一体どのような書籍なのか。
「赤い竜」の「黒い雌鳥の秘術」を語るにあたって、まずはその解説を行なっていきたい。
◇「魔術書 赤い竜」についての解説と考察
中世ヨーロッパで爆発的に流行した西洋魔術書・グリモワール。
この言葉は現在では「西洋魔術書」を広く指すものと使われている。
英語では「grimoire」と表記するが、元々この言葉はフランス語の「grammaire」が語源で、『ラテン語で書かれた文書』を意味するとされておりこの単語が魔術書を指して使われるようになったのは18世紀であると言われている。
そんな西洋魔術書・グリモワールの一つが今回の議題である「魔術書 赤い竜」である。
この「魔術書 赤い竜」は、英名では「The Red Dragon」。フランス語では「Le Dragon Rouge」表記され、おそらく原本はフランス語版である。
そしてなによりこの「赤い竜」、元は1750年ごろに成立した魔術書「大奥義書」の異本であるとされているのだ。
14〜15世紀ごろに成立し大流行した魔術書「ソロモン王の鍵」。この本に大きな影響を受け、後年に制作されたグリモワールの一つがこの「大奥義書(グラン・グリモワール)」であると言われている。
『「大奥義書」以前のグリモワール』は内容が非常に難解であり理解しがたいものであったが、一方で「大奥義書」はその内容が大変整っており理解しやすいことから当時中世ヨーロッパの大衆に最も大きな影響を与えた魔術書となった。
「赤い竜」はこの「大奥義書」の要素を引き継ぎ18〜19世紀ごろに成立したものと言われているが……実際のところ、明確な制作年は謎に包まれている。
今回筆者が手に入れ、翻訳した「赤い竜 フランス語版」を読むとその謎はさらに深まった。
なぜならそのフランス語版には「赤い竜」が出版されたと思しき成立年代が記載されており、そこにはなんと「1521年」が成立年であると明記されていたからである。
テイタン・プレス出版 で「赤い竜」フランス語版を翻訳出版したサイレンス・マヌス(Silens Manus)氏はこの件について
「『赤い竜』の1521年版は実際は存在しせず、少なくとも歴史上でこのタイトルの書籍が言及されたのは1800年代初頭である。そのため成立年も18世紀〜19世紀頃だろう。このように異なった成立年を記載した理由であるが、おそらく当時宗教的迫害を恐れた出版社が、年代による付加価値をつけることでその迫害から逃れようとしあえて異なる成立年を明記したのではないか。」
と語っている。
事実「赤い竜」は「『大奥義書』の異本」であるとされているため、本来であれば「大奥義書」の成立年と思しき1750年頃より後に生まれていなければならない書籍である。
とすると「赤い竜」の成立年も「大奥義書」成立後の1750〜1800年以降と見るのが最も妥当あろう。
また今回、筆者はグリモワール「赤い竜」の英訳・仏訳を行うにあたって、記述表現を比較するべく多くの版の「赤い竜」を購入したのだが、そこで驚くべきことがわかった。
18世紀に生まれたこの西洋魔術書「グリモワール」の内容は、同タイトルでも版によって掲載の順序や内容自体が異なるものが存在するのである。
つまるところ、この「赤い竜」には「黒い雌鳥の秘術」が掲載されていないバージョンが存在するのだ。
例えば、アーマン・ラムダ(Aaman Lamba)著の「The Complete Illustrated Grand Grimoire, Or The Red Dragon」。
この書籍はまごうことなき「赤い竜(The Red Dragon)」の内容が記されている本であるが、確認したところ「エロイムエッサイム」が使用されている「黒い雌鳥の秘術」は掲載されてなかった。
一方で、別版のタール・ワーウィック(Tarl Warwick)編集の「The Grand Grimoire: The Red Dragon」の方では「黒い雌鳥の秘術」を確認することができる。
さらに「赤い竜」の大元である「大奥義書(グランド・グリモワール)」関連も同時並行で調べていたところ、「大奥義書」のタイトルを冠しながらもその内容に「黒い雌鳥の秘術」が記されている版を筆者は一冊確認してしまった。
一体なぜこのようなことが起こっているのか。
これはあくまで筆者の推測であるが、おそらく18世紀ごろに生まれた「赤い竜」に記載されている悪魔を呼び出す「黒い雌鳥の秘術」は、「赤い竜」が成立した後どこかの段階で「追記された呪文」だったのではないだろうか。
中世ヨーロッパでは「赤い竜」の多くの写本が生まれ、世に流布した。
元々「赤い竜」は、「大奥義書」に記載されているテキストを雛形にして製作された本である。そのため【「大奥義書」の内容を比較的忠実に汲んでいる「赤い竜」】と、『「赤い竜」にさらに「黒い雌鳥の秘術」が組み込まれた』……いわば【赤い竜+α】で編成されている書籍がそれぞれ同タイトルで流通したのでは無いかと考えたのだ。
一部の「大奥義書」に「黒い雌鳥の秘術」が記載されていた理由も、後世で(おそらく異本であることを理由に)【赤い竜+α】が「大奥義書」に再編(逆輸入)されたことがあったからではないだろうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1664058137556-xFvASNgxbH.jpg?width=1200)
グリモワールは非常に長い歴史を持つ西洋の魔術カルチャーである。しかし、一方で当時の宗教観を軸に、歴史の中で少しずつ元あった形を変えてきた書籍とも言える。
もし中世ヨーロッパにかつて「存在した」もしくは「する」であろうグリモワールの原本を「親」とするならば、現代の我々が手にしている多くのグリモワールはそういった原本の「子供・孫・ひ孫」にあたる書籍であると筆者は考えている。
故に実にややこしく、実に不明瞭。だがこの輪郭が鮮明にならない底知れなさこそが魔法や神秘の真骨頂であり、魔術書「グリモワール」の魅力でもある。
そしてなにより、現代で刊行されているグリモワール「エロイムエッサイム」の呪文が収録されている魔術書は「赤い竜」であることは疑いようの無い事実だ。
◇誤解されている「黒い雌鳥」の出典
さて、ここまで「エロイムエッサイム」が記載されている「魔術書 赤い竜」について解説したが、実はこの呪文。現代で出典に関する誤った情報が流布していることが問題視されている。
例えば……新紀元社の出版する「図解 魔導書」にもこの「エロイムエッサイム」の呪文についての解説項が存在するのだが、この本には呪文の出典について以下のように記されている
日本でもよく知られているこの呪文は、一般に「黒い雌鳥」と呼ばれる魔術の変形版で必要とされるものである。「黒い雌鳥」の魔術については魔導書『黒い雌鳥』に詳しい解説があるが
この本に出てくる「魔導書 黒い雌鳥」であるが、これもまた1820年のフランスで出版されたとされるグリモワールの一つである。
特筆事項は「黄金を発見してくれる黒い雌鳥の作り方」について書かれた項目であり、当時のトレジャーハンターや冒険家の間で非常に注目されていた書籍だ。
さて、ここまで本文を飽きずかつ丁寧に読んでくださった方には言わずとも察していただけてるかと思うが、この「魔術書 黒い雌鳥」と「黒い雌鳥の秘術」は字面が似ているだけで、あり方が全く異なる存在のものである
「魔術書 黒い雌鳥」は魔術書(グリモワール)の一書であり。
「黒い雌鳥の秘術」は「魔術書 赤い竜」に記されている呪文の名前なのだ。
せっかくなので原書とされるフランス語でも比較してみる。
「赤い竜(Le Dragon Rouge)」に掲載された「黒い雌鳥の秘密(SE Ç RE T DE LA POULE NOIRE)」
魔術書(グリモワール)「黒い雌鳥(LA POULE NOIRE)」
このように双方ほぼほぼ同タイトルで書かれているため、この二つの「書籍」と「呪文」は時折誤って混同されることがあるのだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1664058035968-DbrBq3C5rK.jpg?width=1200)
実際に「怪と幽」の鏡先生も、インタビュー内でこの「エロイムエッサイム」の呪文が載っている「魔術書(グリモワール)」の出典を「魔術書 黒い雌鳥」からであると誤って解答しているのであるが、先ほど紹介したように出典を誤って表記している書籍が現代でも広く出回っているため、その点はある種仕方のないことと言える。
ネットを検索すると未だこの呪文が「『魔術書 黒い雌鳥』に掲載されている」と誤って説明されているブログや記事などが少なくない数散見され、それを鵜呑みにした第三者がこれらの誤った情報を広めてしまう現象が起こっている。
この情報の不確実さがネットの聞き齧り知識の恐ろしい点だ。
私は当初これらの誤出典の表記がなされているのは「世界教養全集」だったのでは……と思っていた。だが実際読んでみたところ「世界教養全集」には
(「赤い竜」に掲載されている悪霊の召喚方法を説明したのち)
これが、悪魔を呼びだし、すぐに金持になる簡単な方法である。その他の黒書には、ずっと複雑な儀式が規定されてある。しかしながら、やはり簡便さがとりえの「黒色の若いメンドリ」の儀式がある。
(以降エロイムエッサイムを使用する「黒い雌鳥の秘密」の呪文の使用方法について解説される)
とのみ記載があり、「エロイムエッサイム」の呪文の出典は明記されていなかったのである。
……とするとより疑問が深まる。
日本におけるこの「エロイムエッサイム出展誤解問題」は、単に魔術書と呪文で名前が殆ど同じだからというだけでは説明できないほど根深いのである。
では、なぜこのような誤解が世間に多く流布することとなったのだろうか。
◇「黒い雌鳥」の誤出典が広まった理由
今回筆者は人に恵まれ、その謎を解き明かしてくれた書籍に出会うことができた。それが渋沢龍彦氏が1961年7月29日に刊行した「黒魔術の手帖」である。
水木しげる大先生が参考にしたと思しき「世界教養全集」は昭和参拾六年拾月五日刊(1961年10月5日)のため、こちらは同年の数ヶ月前に発行された書籍である。
「世界教養全集」の中身はK・セリグマンの「呪術の歴史」(原題:「The Mirror of Magic」)」の日本語訳であったが、渋沢龍彦氏の「黒魔術の手帳」は内容を読む限り渋沢氏が独自に調べた複数冊の関連書籍によって後世されているものと思われる。
「世界教養全集 第20巻(K・セリグマン)」と「黒魔術の手帳(渋沢龍彦)」 執筆者は異なるものの、両書籍とも収録された内容にも類似点が多く見受けられる。今回はその中でも議題の中心である「エロイムエッサイム」からなる悪魔召喚呪文が両書籍に記されているのが大きなポイントである。以下がその紹介部分の抜粋だ。
悪魔の喚出法にはなかなか面倒な儀式が多いけれど、いちばん簡単な『黒い牝鶏』から次に紹介しよう。この魔法書によると、魔法を呼ぼうとする者は、一度も卵を産んだことのない一羽の黒い牝鶏をもって、二つの道のぶつかる十字路に行かねばならない。この十字路で、深夜、牝鶏を二つに引き裂いて、「エロヒムよ、エサイムよ、わが呼び声をきけ」とラテン語の呪文を唱える。その際、東を向いて膝まずき、糸杉の枝を手にしていなければならない。そうすれば、悪魔はすぐに姿をあらわす──というのである。これは簡単だから、お望みの方はやってごらんになるとよろしい。
おわかりいただけたかと思うが、「黒魔術の手帳」には「エロイムエッサイム」の呪文が「魔術書 黒い雌鳥」からの出典であるとはっきり明記されている。
それでは……渋沢龍彦氏は一体なぜこのような誤表記をするに至ったのだろう。
大まかな理由として筆者が考えるのは
1、渋沢龍彦氏の参考した書籍そのものに誤り(誤表記)があった。
2、渋沢龍彦氏の参考した書籍に誤りはなかったが、呪文と同タイトルの魔術書があったため和訳する際に、書籍の方と勘違いした。
の2つである。
筆者は60年代のオカルト文化史に精通しているわけでは無いため、当時出版されたオカルト系書籍に対して十分なリサーチと参照を行なっているわけではない。
もしかすると渋沢氏の「黒魔術の手帖」以前にこの箇所を誤訳・誤記した日本人著者がいた可能性も考えられる。
しかし、この「黒魔術の手帖」は、かの作家・三島由紀夫氏が「殺し屋的ダンディズムの本」と嘆賞したと評されたことで当時話題となった書籍であり、1960年代のオカルト著書の中でも非常に注目度の高いオカルト本だった。
そのため、この著書が少なからず後世に「エロイムエッサイムが『魔術書 黒い雌鳥』からの出典である」という誤解を広める要因となったのではと筆者は考えている。
★フランス語版「赤い竜」と「世界教養全集」との比較
「エロイムエッサイム」の呪文が書かれている「黒い雌鳥の秘術」の出典元である「魔術書赤い竜」について解説してきたが、次はこの「魔術書 赤い竜」に書かれていた具体的な内容はどういうものだったのかについて迫っていきたい。
「世界教養全集第20」の内容は、K・セリグマンの「呪術の歴史」(原題:「The Mirror of Magic」)を平田寛氏が和訳したものであるとは以前説明した通りだが、英語版から日本語版に訳される過程で平田寛氏が独自の比喩表現を使用した可能性があるのではないかと筆者は考えた。
端的に言えば我々の知る文言と、本来の呪文に書かれている文言では、全く意味合いが違うのではと推測したのである。
「魔術書 赤い竜(フランス語版)」と平田氏の訳した「世界教養全集第20」双方を見比べることで、悪魔くんへの変遷と、呪文本来の概要をより明確にすることが本章の主題である。
それでは「悪魔くん」の呪文の出典元と思われる「世界教養全集」と「魔術書赤い竜(フランス語版)」の記述を見比べながらその変遷と呪文の概要を追っていこう。
◇「黒い雌鳥の秘術」
まずは「エロイムエッサイム」の呪文が使用される「黒い雌鳥の秘術」の秘術から遡っていこう。
世界教養全集では「黒い雌鳥の秘術」は悪魔を呼び出すための呪文であると説明されていた。その点に着目して下記の表を見ていただきたい。
表の左が「魔術書 赤い竜 1521年フランス語版(Le Veritable Dragon Rouge)」、中央が「筆者の赤い竜フランス語版の直訳」、右が「世界教養全集第20」に記されていた「赤い竜」との共通箇所である。
![](https://assets.st-note.com/img/1663608000945-kDGHk5hjN1.jpg?width=1200)
さて、上記のフランス語版をよく読むとお分かりいただけると思うが
実は「魔術書 赤い竜」の「黒い雌鳥の秘術」の中では呼び出されるものは、「悪魔(devil)」であるとは明言されておらず、「汚れた精霊(霊魂)が、頭に二つの雄羊の角を持ち、緋色のローブを纏った人間の姿で現れる」と説明されているのだ。
ただヤギ角というのは「悪魔」の代表的な特徴の一つであり、そのため明言こそされていないものの、後世では悪魔を呼び出す術としてこの呪文が流布したものと考えられる。
またもう一点注目すべき点を挙げるとすれば元々、この「エロイムエッサイム」を使用する魔術を行使する際は「3回呪文を唱える必要がある」とされているが「世界教養全集」の方にはそれが記載されていない。
K・セリグマンの「呪術の歴史」(原題:「The Mirror of Magic」)を確認したところこちらも
According to the author, the magician must carry a black hen that has never laid an egg, to the crossing of two roads; there, at midnight, cut the fowl in half and pronounce the words: "Eloim, Essaim, frugativi et appellavi."
[訳]
著者によれば、魔術師は卵を産まない黒い雌鶏を2つの道の交差点まで運び、そこで真夜中に雌鶏を半分に切り裂いて、この言葉を唱える。"エロイム エッサイム frugativi et appellavi " )
/Kurt Seligmann
とのみ記載があったことからおそらく、これは K・セリグマン本人が呪文の解説を簡略化したのが原因であろう。
また加えて「我が求め訴えたり」の和訳箇所にも注目すべき点があるのだが……こちらは次回で取り上げる議題のため、その際により詳しく説明したい。
◇「死者と対話する魔術」
続いて赤い竜に記載された「死者と対話する魔術」の詳細を見ていこう。
![](https://assets.st-note.com/img/1663608008683-VFMmkUunZL.jpg?width=1200)
これを見ると「朽ち果てし〜」から始まるおなじみの呪文は、全体的に平田氏の表現と思われる翻訳箇所がいくつも見られることがわかるだろう。
その中でも筆者が面白いと思った和訳が1箇所ある。それは「世界教養全集」の「天地万物を混乱におとしいれる地獄の魔ものよ、陰気なる住家を立ち去りて、三途の川のこなたへきたれ」の箇所である。
「世界教養全集」では「三途の川のこなたへきたれ」としているが
「赤い竜 フランス語版」でこの箇所は「ステュクス(Styx)を超えよ」となっているのだ
「呪術の歴史」(原題:「The Mirror of Magic」)の方も確認してみたが
"Infernal powers, you who carry disturbance into the universe, leave your somber habitation and render yourself to the place beyond the Styx River."
/Kurt Seligmann
やはりこちらも「ステュクス川」と記載されている。では「ステュクス」は一体なにを指す言葉なのだろうか。
この「ステュクス」とは、ギリシャ神話上の「冥府の川」のことである。
冥界の河の渡し守としてギリシャ神話で度々登場するカローンは比較的有名であるかと思うが、そのカローンが渡し守をしている川こそこの「ステュクス」なのである。
我々日本人が連想する「三途の川」は仏教的概念の強い言葉であるが、「あの世の川」としての代表格でありまた日本人ならば知らぬ人はいないほど馴染み深い言葉である。
おそらく、平田氏はこの「ステュクス」を訳す際に「ギリシャの冥界にある、あの世の川」であることに着目し、日本人に馴染みが深い”三途の川”とあえて訳したものとおもわれる。
こうして平田氏によって和訳され変化した西洋魔術書グリモワールに記載された呪文が、水木しげる先生の手によって悪魔くんシリーズへ取り入れられ、さらに変遷の歴史を辿ることになったのだ。
次章では、悪魔くんシリーズでの呪文の変容と変遷についてみていきたいと思う。
★悪魔くんシリーズ内での呪文の変遷
ここまで解説してきた通り「悪魔くん」という作品に使われている「エロイムエッサイム」から始まる悪魔召喚呪文は、実在する中世ヨーロッパの西洋魔術書「グリモワール」の「赤い竜」からの出典であり、その魔術書の中身を翻訳もしくは解説した二次書籍が1960年代頃の日本で徐々に広まり始め、それを読んだ水木しげる大先生の手により「悪魔くん」という作品に取り入れらたのが「悪魔くんにおける悪魔召喚呪文」の始まりである。
1963年に元祖である「貸本版悪魔くん」が誕生したのち、少年マガジンに移籍した水木しげる先生の手で同タイトルの新作である通称「マガジン版悪魔くん(1966年)」が連載されるようになった。
「マガジン版悪魔くん」は、オカルティズム要素の強かった「貸本版悪魔くん」から一新され、当時少年漫画誌を読んでいた子供たちに向けて親しみやすい作品とするべく前作とは全く異った別人の主人公・山田真吾による妖怪退治をメインとしたストーリー構成となった。
「マガジン版悪魔くん」が上記のようなヒロイズム要素の強い作品となった背景であるが、当時の水木しげる先生の関連インタビューや証言を遡るかぎりでは
「同一タイトルで新作を作成する場合、オカルティズムを全面に出した前作主人公(松下一郎)とその主人公の上に成り立つ世界観では、少年マガジンを愛読する読者層やタイアップ予定の『実写ドラマ版悪魔くん(1966年)』の視聴者に親しみは持ってもらうことは難しい。」
というお考えがあったからだと思われる。
そのため、「タイトル」「一万年に一人の救世主」「世界を幸福にするために悪魔を召喚する」などの前作の基本設定の部分のみを踏襲し、キャラクターを心機一転させ前作(貸本版)とストーリーのつながりのない独立した世界観とすることによって作品そのものの一新を図ったのだろう。
結果的に水木しげる先生のこの判断は最適解であり、実際これらエンタテインメントに特化・改変された「実写ドラマ版悪魔くん」と「マガジン版悪魔くん」の影響で「エロイムエッサイム」という呪文が加速度的に世間に浸透したのは事実と言って良いだろう。水木しげる大先生ご本人のディレクションとプロデュース能力は実に見事と言わざるを得ない。
(話を戻して)こうした前例と背景から「マガジン版悪魔くん」以降、「悪魔くん」は多くのリメイクを重ね、各媒体ごとに独立したマルチバース的な作品群へと成長していくことになり、またそれらのシリーズの変遷は四半世紀を超えて行われることになる。
……と同時にこうした歴史と時代と経るに従ってこの「エロイムエッサイム」という呪文そのものにも変遷が行われた。
では「悪魔くん」という作品で「エロイムエッサイム」という呪文はどのように変化していったのかを見ていこう。下記がそのまとめである。
![](https://assets.st-note.com/img/1662728898057-xarYfeR5si.png?width=1200)
※(作中例外が存在する作品もあるため)召喚されたのは「悪魔」であることに限定する。
貸本版以降の各シリーズを比較すると、「朽ち果てし大気の生霊よ〜」からの文言は、後年メディアミックスと経年によって「簡略化」が目立つようになる。
この簡略化は、作中で悪魔召喚を伝授する際にファウスト博士が「大気の生霊を呼びだす」かの描写の有無、そして媒体ごとに前身となった作品から受けている影響度の差によるものが大きいと推測している。
「悪魔くんシリーズ」は媒体ごとに独立したマルチバース要素が強い作品群である……とはここまで再三語っているが、各媒体ごとの原作主人公は主だって3人のみである。
【松下一郎】…貸本版/千年王国版/世紀末大戦
【山田真吾】…マガジン版/モノクロ実写ドラマ版/月曜ドラマランド版/ノストラダムス大予言
【埋れ木真吾】…ボンボン版(最新版)/アニメ版(89')
上記には原作以外のメディアミックス作品も含まれているが、こと「モノクロ実写ドラマ版悪魔くん(1966年)」と「アニメ版悪魔くん(1989年)」はそれぞれ原作とのタイアップを行いつつ独立したストーリーによって枝分かれした派生作品である為、上記の作品派貸本版悪魔くん」の続編作である「悪魔くん世紀末大戦」を除いて各タイトルごとにマルチバース的作品であると考えている。
(※備考※ 東映とのメディアミックス作品である「月曜ドラマランド悪魔くん(1986年)」の主人公は従来原作と異なり「伊藤真吾」という名前であるが、年代的にもキャラクター構成的にも踏襲した原作が「マガジン版悪魔くん」であることは明らかであるため、原則「山田真吾版」番外としてカウントする。)
「悪魔くん」そのものの呪文の変遷を語るのであれば時系列と共に主人公の媒体にも注目するとよりわかりやすいだろう。
![](https://assets.st-note.com/img/1664025058167-ai7xMgLEL2.jpg?width=1200)
上記の表を見るとわかるが、【松下一郎版】が一貫して「貸本版悪魔くん」の文言をほぼ忠実に引用・再現している一方
【山田真吾版】では「天地万物を混乱におとしいれている〜」以降の文言がなくなり、より簡略化された呪文となった。
後年の1980年以降の「悪魔くんシリーズ」ではメディアミックスによる影響がより強まったことで「ファウスト博士の助力によって『大気の生霊』を呼び出す儀式」が作中で描写されなくなり、最も簡略化された形となった。
(ただし1993年の「ノストラダムス大予言」では「山田真吾版」の原作である「マガジン版悪魔くん」の影響を強く受けているせいか「朽ち果てし大気の生霊よ〜」の文言のみ復活している)
しかし、それでも「エロイムエッサイム 我は求め訴えたり」という代表的なフレーズが四半世紀の間変わることなく受け継がれたのは事実であり、こうした多くのリメイクと変遷の中で
【「悪魔くん」という作品で使われている悪魔召喚の呪文】
として世間に浸透していくこととなった。
その結果、この呪文は
「実在する西洋魔術書に掲載されている呪文」の中で日本国内屈指の知名度を誇るまでに至ったのである。
★「エロイムエッサイム」の更なる謎
さて、ここまで「悪魔くん」という作品に使用された悪魔召喚呪文「エロイムエッサイム」を
「水木先生の用いたとされる出典書籍」
「西洋魔術書の歴史」
「悪魔くんシリーズ内での呪文の使われ方」
の3つを主題に、根源と変遷をさかのぼり考察してきたが。
出典書籍が明らかになると、我々の中で一つ。気になる疑問が浮かんでこないだろうか……そう。
「エロイムエッサイム」とは一体どういう意味の言葉なのか?
筆者が「水木しげる御大が参照したとされる『世界教養全集』の存在を知る前からグリモワールを独自翻訳していた」ことは冒頭に記していた通りであるが……それを行なっていた真の目的。それは、この呪文が構築された意味と根源を解き明かすことにあった。
魔法「エロイムエッサイム」の言葉の意味については、現在でもさまざまな憶測や仮説がネット上で散見されている。しかし、どれもはっきりとした出典元や事実確認の明記がない。はっきり言って信憑性の乏しい仮説ばかりが乱立している。
しかし、これらの信憑性の乏しい仮説にも生まれたのも「黒い雌鳥の秘術」の誤出典が広まったのと同様、そうなった理由がどこかにあるはずである。
物事には必ず始まりがある。基本的に「無」から「有」は生まれ得ない。
それを解剖し、解き明かす時、我々は「悪魔くん」の真髄に至れるのではないだろうか。
次回は「エロイムエッサイム」という呪文を解剖し、【呪文の意味】そしてそこから見えてくるグリモワール「赤い竜」で扱われている【悪魔召喚の本質】について探っていきたい。
(第二回・10月更新予定)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?