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「かの国」からの便り

先日、学生時代にお世話になった方を介して、芸術専攻の大学生と知り合った。

大学4回生の彼女は、一年ほど休学して北欧に留学していたそうだ。

「卒業制作展をやっているのでぜひ来てください」と誘っていただいたので、後日連絡をとって美術館へ行くことにした。

集合場所から美術館までの道中、北欧で過ごした生活を知りたくていろいろ質問した。

「冬は日が出ている時間がすごく短くてすぐに真っ暗になるんです」

「言葉がわからない環境に身を置いたことで、自意識がすごく低くなったんですよね、それがすごく良かった」

現地で過ごした日々に自分自身の考えを合わせ淡々と話す姿勢に、自分の考えをしっかりと根っこに張って生きているんだなあと感じていた。

そんな話をしているとすぐに美術館に着いた。

中には、力作がざっと並んでいて圧倒された。

水引や折り紙や小枝など身近なものを使ったクラフト、色彩鮮やかで動きも滑らかな映像、社会科見学で見るような構造物の模型など、作者それぞれの感性と気迫が込められた作品ばかりだった。


彼女の作品は、展示を7割がた見終えた場所に飾られていた。

タイトルは、「かの国」

彼女は、北欧で手に取ったものや感じた心を、「かの国」という幻想の世界から発掘された資料として表現していた。

本、卵、キャンディー、指輪、丸模様。

発掘された品は、統一性がなくばらけて見えるけれど、「かの国」の調査員である彼女の解説を聞いていると、すべて大切な資料であることが分かる。

「かの国」という幻想の世界は、観る人の想像力を働かせた。

「この黒い卵にはどんな意味があるんだろう」

「いかにもアンティークなこの指輪は、魔女の指輪みたい」

ぽけーっと思いを馳せて観ていると、表現したきっかけを話してくれた。


「これはイースターのときに本当に使っていたものらしいんですよね。」

「これは市場で買った指輪ですごい昔のものらしくて。おもちゃだからピンキーリングよりちっちゃいんですよね。」

「これは友人がfacebookで挙げていたコメントで、表現がすごくいいなぁと思って。」

ばらけて見えるものも、すべて生活雑貨で、ひとつひとつにストーリーがある。


揺さぶられる思いはたくさんあったが、印象的だった一枚がある。

〝ケトルの目録カード〟

ケトルが沸かした最後の湯を飲んだ者が発した言葉「温言」が記されたカードだ。


この作品をじっと見ていて、

「もし、このケトルが言葉を持っているとしたら」

と想像していた。


それと同時に思い浮かんだのは、
コンビニの淹れたてのコーヒーだった。

私はそれが結構好きで、1,2時間かかりそうなドライブのときには大抵コンビニに寄って買い、ハンドルの脇に紙コップを置いておく。

飲み終えたらゴミ箱へ捨てて、帰り道にはまた新しく淹れたコーヒーかカフェラテの紙コップを置いておく。

なくなったら、捨てればいいし、
欲しくなったら、買えばいい。

コーヒーだけじゃない。

お腹が減ったときのおにぎりも、
喉が乾いたときの水も、
むしゃくしゃしたときの唐揚げやビールも、
やばいと焦ったときのiPhoneの充電器も、ビニール傘も、全部そうだ。

気付いたら、「使って捨てる、捨てたら買う」が当たり前の毎日で、

「もし、このケトルが言葉を持っているとしたら」

なんて、子どもの頃以来考えたことがなかった。


私が借りている家にはたくさんの古い家財道具があるけれど、彼らは何と話すんだろう。

「昔はよかったな」

と嘆いたりするんだろうか。

社会人3年目を終えそうな私は、
「仕事ができるようになりたい」
「成長したい」
「どう効率よくやるか」
「どうすれば結果が出るか」
と考えることが増えた。

ただ、このカードを観ていて、ぽつり、

「ああ、それだけじゃないよなぁ」

と思った。


ケトルの目録カードは、過ぎ去る毎日を必死で駆け抜けている私に、

「そんなに急いでどこ行くの。」

「あなたはまわりのものを大切にしたら、もっと豊かさを感じられるかもしれないよ。 」

と、穏やかに、でも心を見透かしたように語りかけてきた気がする。


「かの国」の資料のなかで、“かの国のものたち”という薄い冊子を一番最後に観た。
それは、こんな文章で締めくくられていた。

“この世の中はまこと、知らなくても生きていけることばかりです。そもそも、「知る」とは、なんと大それた概念であることでしょう。何かをほんとうに知るということは、たいへんな大仕事です。現代を生きる私たちはこのたいへんな作業をできるだけ速く、効率よく終わらせようと一生懸命になっているようにみえます。しかし、そのなかで失われてしまうたくさんの不明瞭な、しかし大切な「なにか」、その物語の存在を私たちは忘れてしまっているのかもしれません。”


作者として、私に解説してくれた彼女は、

「感性って一人一人違うんですよね」

と、ある意味であきらめも含ませたように話してくれた。

「いくら表現したとしても、作品から何を受け取るかは、観る人に委ねられる。」

見る人の感性は一人一人異なり、時間軸によっても変わってしまう。


ケトルの目録カードから受け取ったと感じた、

「そんなに急いでどこ行くの。」

という問いかけも、今の私の感じた言葉だ。

あなたは、別の言葉を感じ取るかもしれないし、素通りするかもしれない。

未来の私でも、この言葉は感じ取らないかもしれない。

「もし、このケトルが言葉を持っているとしたら」

少なくとも今の私は、これくらいユーモアのある問いかけを想像できるくらいが、肩の力を抜けて毎日を楽しく過ごせるかもしれない。
周りのものも、ちょっと大切にできそうだ。

自分が余裕を持てるときは、周りのものを大切にできるし、
周りのものを大切にしたときは、自分へ返ってくる。

自分をとりかこむ世界に、
愛しさが増すかもしれない。
優しくなれるかもしれない。

美術館で「かの国」に思いを馳せたあと、家に帰ってからの数日間も、余韻に浸りながらそんなことをじんわりと考えていた。


「もし、あなたの周りにあるものが言葉を持っているとしたら、あなたに何と話すと思いますか?」


Special Thanks▼
「かの国」山ノ井 梨紗子
https://risakoy.wordpress.com/

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