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ローテート研修の思い出

割引あり

30年以上前の昔話。
とにかく毎日楽しかった。日々成長を実感した。
即入局せずに救命救急センターのある病院でローテート研修できた。
今で言うところのハイパーな病院だった。

幸いメンタルがやられることはなかった。
30代半ばになってやられたけれど。

心身さえ持ち堪えるなら、研修はハイパーな病院の方が良いと思う。

働き方なんてない時代

当時の研修医の仕事は、内科系では専ら見学と雑用であった。検体を運んだり、紙カルテや画像を準備したりだった。外科系では第2助手で鈎引き。当時腹腔鏡が始まったところだったのでカメラ持ちもそれほどさせてもらえなかった。外科レジデントがやりたがる時代だったから。それでも人手が足りないとカメラ持ちをした。慣れなくて術野がずれたり曇ったりしてよく怒られた。術後のホルマリン準備。あとは入院患者の問診やサマリ書きなど。
それでも楽しかった。

夜が勝負

研修医は夕方以降が勝負であった。通常の業務が終了すると病棟をウロウロしていた。オーベンの先生がいる間はくっついて何でも見て聞いて覚えて、知識でも技術でもとにかく自分のものにしてやろうと思っていた。気分良く僕に教えてやろうという気持ちになってもらえるように、そこでもオーベンの雑用をこなした。当時は紙カルテとオーダリングシステムだったので、指示の入力を率先してやっていた。エコーがいるとなったら外来から病棟へガラガラとエコーを運んだ。当時のエコーは大きかった。そして終わったら外来に返したりしていた。
オーベンが帰ったら、救急外来をウロウロして、いろいろな先輩や同期の救外の診察についていた。チャンスがあれば気管内挿管やCV挿入や、今でいうところの三次救急的な処置はなんでもやった。
重症者の全身状態管理はダイナミックで、とにかく刺激的だった。

朝ごはんは売店のサンドウィッチかおにぎり。昼食は食堂だったが、夜は医局をぶらぶらしているとローテート先の科の先生はもちろん、他の診療科の先生でも研修医に対して「晩メシ行くぞ」と言ってご馳走してくれた。いろいろ耳学問ができた。
夕食が終わったらまた救急外来に戻った。緊急手術があれば、そこに入れてもらえた。糸結び、それから慣れてくると最後のナートくらいはさせてもらえた。まだステープラなどない時代のことだ。
夜落ち着いたところでオペ室のシャワーを浴びて就寝だ。基本は病院の医局に寝泊まり。布団はあった(煎餅布団ではあった)。
外科系の先生も何人か泊っていた。

あさイチは病棟に行って、朝の採血をした。最初はナースに教えてもらい、1週間もするとそれなりに上手くなっていった。そうすると戦力となり朝の業務が助かるということで病棟のナースにはとても喜んでもらえた。次のローテート先の病棟に行くととても重宝がられた。就職して3か月は毎朝採血をした。

土日も勝負

土曜日、日曜日の回診があるときにオーベンにくっついていると、午前の回診が終わってから昼飯をご馳走してくれた。そのときに、平日では教えてあげられないが、日曜日なら時間があるから教えてあげるよと言われて、その通り指導を受け、素直に嬉しかった。
外科系では日曜日の回診だと抜糸をさせてもらったりもした。とにかく最初はなんでも嬉しかった。

日曜日の回診が終わると実家に1週間分の洗濯物を持って帰って、翌週分の着替え一式をもってその夜のうちに病院に戻って泊まった。

ローテートの順番は戦略的に

ローテートの順番は戦略的に考え抜いて希望した。クジ運もあったけれどほぼ希望通りであった。
研修開始直後はなにも手技はできない。ろくに末梢ルートも取れない時期に段階で救急科や麻酔科を回るのはもったいない。手技実践の醍醐味は救急、麻酔科である。そこは中盤にもっていくつもりだった。まずスタートとして選んだのは整形外科、形成外科。その間に採血、点滴、末梢ルートを取れるようになること、ナートができるようになることを心がけた。麻酔科の朝は早いので夏場に麻酔科を回りたかった。そのころには挿管、Aライン、CV、硬膜外麻酔もさせてもらえた。そこで手技を学んで後半に実践である。循環器、救急科は冬場に当たるようにした。最後に一般外科を回りアッペの手術をさせてもらうことができた。1例だけだったけれどunforgettableだ。
概ね思い通りのローテートができた。

当時の給料

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