ジャック・ケルアックの言葉
ニューヨークのデパートでむずかる子供を叩いていた日本人の母親が警備員に連れていかれた。
アメリカでは立派な幼児虐待だ。
その後、警告だけで済んだのか、警察に引き渡されたのか知らないが、国が違えば基準も違う。
文化とは、ある団体に従属する人々に共通した反応の仕方だ。
国民性の違いとは、その国の国民に共通した反応の仕方が違うということに他ならない。
ニューヨークには自由があるという。
コインの裏表のように、一方で、アメリカ人は傲慢だとの声も多い。
そうアメリカには陽気と同じように差別もある。
主張しない者は無視もされる。
それでも自由を感じるのは、自分を信じて、自分が良いと思うことを実行することによって表現する人々がいるからだ。
仕事、経歴、学歴、国籍、年令、性別などいろんなラベルに関係なく正しいことを実行する他者を認める気風がある。
自由とは、自分の固定観念に屈することなく、自分の行動の評価を他者に委ねないではないか。
自由とは誰かから授けてもうらうものではなく、自らが獲得するものだ。
そのような力は、どのようにして身につけるのだろうか?
親から子へ、隣人から隣人へ、地域で、社会で、伝えられていった物事への共通した反応を身につける。
文化を文化を育むことで根付いていく共通したアイディティティの力による。
自分を信じる作業は、絶対的な正しい判断に支えられる孤独な作業だ。
なかでも、人を愛することは、人間の自由のなかでも、特別に孤独な行為だ。
愛する者にとって、自分は確かに、相手のためになることをしてやれるのかということに向き合う。
軽やかで、落ち着いた、人を愛する幸福はどうすれば手に入るのだろう。
無償とエゴの激突によって生じる摩擦から生れるヒリヒリする痛みと熱さに音をあげることなく、エゴを忘却の彼方に見送る作業によってこそ、初めてもたされる果実かも知れない。
自分には、果てしなく何度も同じような障害が現れる障害レースのようでもある。
人を思うからこそ、寂しさや切なさに、意味もなく心の底から冷え冷えと凍るような気になることもある。
思わなければ出会うことのない気持ちに接して、痛みだけが目につくことにもなる。
時に、消えてしまいたいくらいに暗い夜があれば、自分は自由を手放しそうな不安にかられる。
それでも、浮かんでは浮かび、浮かんでは浮かぶ★を思いながら、
自分は、自らが定めた自由の基準を守り抜こうと自分に叱咤している。
そんな時、 サンフランシスコを根城に、「路上」を書いた作者ジャック・ケルアックの言葉がやさしく背中を押す。
「街角に立って、決してやって来ない人を待つのがパワーなんだ。」
サンフランシスコ名物、ケーブルカーの終点にある本屋バーンズ&ノーブルで買ったトートバッグに、ケルアックの言葉と自分の自由を入れて街を歩いている。
もうこれより先はない、ここで自由になる。
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