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弘法大師空海


即身成仏


空海が出世コースを捨ててまで、追い求めたものとは、何だったのか?
その思想を一言で表すとすれば、次の言葉に集約できるでしょう。
即身成仏」「誰もが生きたまま仏になれる」というと、聞こえはいいですが、明らかに仏陀の仏教とは違います。
「生きたまま仏になれる」とは、あの世ではなく、あくまで現世での救いにこだわるということ。つまり、この世で幸せに暮らすことが、「究極のさとり生活」いうわけです。この徹底した「現世利益の追求」「現実を肯定して生きる明るさ」こそが、空海の教えの真骨頂です。

現世利益の追求VS.四苦

で、あるなら仏陀(お釈迦様)の仏教にように自分が克服しなければこの世で幸せに暮らすことはできません。お釈迦様は『四門出遊』で見た真実つまりこの仏陀の出会った生老病死の四つが仏教でいう四苦である。

年末年始、シーズン問わずを入院病棟で過ごすことを余儀なくされた方は少ないくないはずだが、そこはまさにこの四苦の集積場である。私も年末に救急車で運ばれて正月を病院で過ごしたが、病で苦しむ人はもちろんのこと、入院患者の中になんとお年寄りの多かったことか。聞けば100歳を超えているという人がすくなくない。

一人では歩くこともままならず、食事も排便もすべてひとつベットの中で済まさねばならぬ人々、そして僅かの間にいったい何人の死に出会うだろう。たとえ、一、二週間の入院であっても、なかにはその検査、治療にはひどい苦痛を伴うものもある。平穏な日常とは切り離された、苦に満ちあふれた時間がそこには流れている。

かつて仏陀は、こうした生老病死に苦しむ人々を救うべく、王族の身分をすて修行の道へとふみ出した。同様に入院病棟には、病の、肉体の苦しみを除こうと務める医者が存在する。しかし日々患者の心を支え、苦を除こうとしているのは医者ばかりではない。

洗顔、食事、排便、散歩、入浴、寒ければ毛布を、熱が出れば氷枕を、叱り、励まし、愚痴を聞き、我がままをなだめ、時にはいわれなき非難にさらされ、本来の医療行為とはかけ離れたこうした幾多の役割を担う看護士たち。彼女(彼)たちの心のうちにある思いは、かつて王城の門外で仏陀が抱いた思いとなんの違いがあるだろう。

医療現場で働く彼ら、彼女らは、仏法の道に一番近い所にいると言えるのではないだろうか。私も自らの四苦にすらうまく対処できない身で、知り合いの看護師さんのお役立てればとアサーションの解説本をプレゼントしたことがあるが、空海のすごさは、言葉で教えを説くだけでなく、その短い会話の中に「生きる勇気」につながる言葉をどのように考え「何をすれば救われるか」徹底して実践主義を貫いたところにあります。

究極のさとり生活

疫病に苦しむ母娘が「生きていても苦しいことばかり、死なせてください。」と嘆く人に対して、この世で成仏せずに成仏できるものか、自らの生きる力に触れて生きる力を呼び起こせ、空海が私たちの体には宇宙と同じ力が宿っている、呼吸で風を体内に入れよと叱咤激励します。

「生きたまま仏になれる」とは、あの世ではなく、あくまで現世での救いにこだわるということ。つまり、この世で幸せに暮らすことが、「究極のさとり生活」だと訴えました「現世利益の追求」「現実を肯定して生きる明るさ」こそが、空海の教えの真骨頂です。

民衆救済

その姿勢は仏教にとどまりません。中国で科学技術、文学、芸術に至るまであらゆる知識を吸収した空海は、帰国後それを民衆救済のために幅広く応用しました。なかでも香川県の満濃池の治水工事をわずか三カ月でやり遂げ、人々に恵みをもたらしたエピソードはあまりにも有名です。「三カ月で無理だ」と逃げ腰の人々に「やるんだ、昼夜を問わず働いて三カ月を倍にするのだ」とハッパをかける。

こうした民衆救済の実践が、全国各地にあります。「現世利益の追求」が密教の一部だとしたら、空海が入唐した折り、当時の日本人で、様々な分献を読む機会があった人はいなかった。しかし空海は原書を読めるように梵語から習得し、科学技術、文学、芸術の文献を熟読し、その奥義を理解した。空海伝説、空海の書を理解するには、これらの典籍を合わせて分析する必要があります。

真言宗の根本道場

弘法大師空海は、嵯峨天皇に真言宗の根本道場である高野山に民衆のための施設を建てたいと申し出しますが、資金面の援助を断ります。民衆のための施設なので民衆の協力で建設したいと、かって聖武天皇が大仏殿(東大寺)を建立したときと同じ理由だった。
しかし、残念なことに、行基が完成した大仏を観ることなく入滅したように、生きている間に壇上伽藍を観ることができなかったのです。


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