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百鬼夜行と夏の妖怪

 中学生のときは、私も私ではない多くの人と同じように、当たり前に死にたかった。
 生きていることが異常で、その対局に位置する死に、救いを求めていた。そしてその感情を正当化するために、やはり多くの人と同じように自傷行為をしたりどうでもいい人と恋愛をしたり、痛くなることで、どうにかなろうとしていた。

 だけど高校生になって、私はとうとう自己表現に手を出してしまった。
 初めてやったのは映画だった。この映画のことに関しては、またいつか文章を書こうと思っている。ともかく、映画作るようになってから、表現をやるようになってから私は、私の自然であることと、他人の自然であることの大きな乖離に気がついた。他者の発見である。そもそも、生き物が普通に生きていて、表現をしようと思うことなどバグだった。映画を作ろう!と思うことなど。芸術というものはほとんどの場合この世のバグだと思う。趣味や娯楽で手を出すなら別だけど、そうじゃなくなってしまったら、基本的に生きることと逆のことをやっている。破滅に向かって進むことである。

 それに気がついて私は、自分はそもそも生きていないのではないかと考えるようになった。生と死の対立構造が間違っていた。だって、自分が生きているのだとしたら、全てがおかしい。肉体も、精神も、全て私のものではなかった。私が進みたいと思うのと違う方向に、「生」は常に存在している。

 そうして私は、死にたいという思考を一切持たなくなったのだ。

 ところで私は今週の26日27日に都内で開催される百鬼夜行東京アタック大作戦!2022に出演する。今年で三年目。百鬼夜行とは今年でなんと6年目になるイベントで、歌って踊れる似顔絵師このよのはるが主催する夏祭りだ。(ちなみに私は今年9/10にこのよのはるとコラボ個展をやる。)例年主にパフォーマンスが多かったけど、今年はパフォーマンスの他に展示や物販もやるらしい。

 私にとって百鬼夜行は、なんだか知らないけどものすごく大事なイベントだ。
 二年前の百鬼夜行で、私は夢を売る女子高生だった。そして一年前の百鬼夜行で、私は紙芝居「月色のアイス砂の味」を上演した。初めて一人で立った舞台だった。私はその時の舞台がきっかけでわたしのような天気になった。
 毎年百鬼夜行を通して何かが変わっているのだ。 
 だけど毎年、百鬼夜行前のこの時期はものすごく調子がおかしくなる。焦って、気持ちわるい悪あがきをいつも以上にしてしまうのだ。

 私は恥ずかしいことに、いつだって焦っている。16歳のクリスマスイブ、好きな人に電話で「なんでお前はそんなに焦っているんだ」って聞かれた時私はm「だって明日にでも殺されてしまうかもしれないから」と答えた。そしたら好きな人に「じゃあ死ね!!!!!!!!」って怒られたけどそりゃそうなのだ。私は、死ぬことが怖くて焦っているんじゃなかった、と最近気がついた。死ぬことが怖くて焦ってるなら死ねば良い。
 最近友達と友達と将来の不安と死の話をした時に、私の目の前にたまに広がる真っ黒な闇が、今の私の死にたい感情なのかもしれない、と考えた。そしてその真っ黒はいつもきまって「余白」の時に現れる。私は、余白にぶち当たると目の前が真っ黒になる。余白に来てしまうと死が見える、だけだった。
 もちろん余白を埋めるために表現をしているわけじゃないけれど、時間と時間の間にある余白にたどり着いてしまった時は真っ黒だ。そういう真っ黒が、この時期、百鬼夜行の前は多い。

 この前のイベントで、喧騒から逃げてパソコン作業をしていた時に話しかけてくれた男の子が、「夏なのに何もやっていない」と嘆いていた。「夏なのに」!やっぱり夏は、みんな何かに追われている。夏は霊界と人間界が近くなるし、やっぱり追いかけてくるそれは、死的な何かかもしれない。だから私は毎年この時期、真っ黒に追いかけられていつも以上に焦る、というか、真っ黒と精神が半同居した状態になっているんだ。

 でもそれだけじゃなく、百鬼夜行には多分何かがいる。魔物か、妖怪か、お化け的な何か。それが私の真っ黒を濃くしている、気がする。

 久しぶりの余白の中で書いた文章、やっぱりしばらく書かないと文章が下手くそになる。

 明日からの百鬼夜行、夏の終わりを少しだけ延長しに遊びにきてね。


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