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失敗した!!!!!!!!

してない!!!!!!!!
してない、してないのである。してない。
(このテキストは専門用語がきっとたくさん出てきます。でもそれが理解できなくても話の本筋は掴めると思うのでそこまで説明せず進みます。それでも読みにくかったら苦情をDMまで。)

 私は確かにカメラという装置を使って、フィルムに像を焼き付ける行為をしているけれど、私がやっていることは写真、といえるものなのだろうか。私はどうしても美しいものを美しいままに捉える写真行為に死ぬほど興味が持てないでいる。

 私の愛機は1965年製の、古ーいおんぼろフィルムカメラだ。カメラの扱いに慣れていない初期の頃は、フィルムの巻きの甘さやカメラの使い慣れなさによって感光しすぎてしまったり、カメラの中でフィルムが切れてしまったりなどして、せっかく撮った写真を無駄にしてしまうことが何度かあった。撮ったけどその写真を見ることができない、ということだ。
 だからカメラの扱いに慣れた今も、フィルムカメラで、特にこのカメラで写真を撮ることはそういうことだと思って撮っている。突然カメラが故障して、故障したことに気が付かず撮り続けて、撮った写真が一枚も見れずに終わるなんてことも全然ありうる。それを覚悟して撮っている。
 だけど、よりによって…と言う時にそれが起こった。何万円もかけてやった撮影で、しかも他者との共同制作で、やってしまった。カメラがとうとう壊れたのか、フィルムの巻きが甘かったのか(でもいつも通りきちんと巻きを念入りに確認した)、フィルムの不備なのか(?)、原因はわからない。だけど、その撮影で3本撮ったフィルムのうち、1本がまるまる全て多重露光していた。像は写っていたが、何が何だかわからなかった。やっちまった、と、思った。泣いた。共同制作者も、言葉を失っていた。
 だけど私はどうしてもそれが「失敗」だと思えないのである。ピントが合ってなかったり過度に感光してしまった写真を「これも味だよね」と言って愛でるアレとはちがう。それは甘えだ。そういうことじゃないところで、「失敗」だとは思えない。

 私にとっての写真行為は、美しいものをフィルムに焼き付けて像に現すことではない。私にとっては、シャッターを切ってフィルムに像を焼き付ける行為よりも、カメラを通すことによって景色を「見つめる」こと、「見つける」ことの方が何倍も大事だった。それは誰もいない学校でカメラを空間に向けていたあの時から変わっていない。現像して写真として現れるものは、行為の結果でしかない、と思っているのだ。だから写真の美しさなんて正直どうでもいい。美しいものを美しいまま撮ることに興味が持てない。
 だから、二重露光されてフィルムを切ることができず長巻で返ってきたそれも、失敗ではないのだ。撮影中、そこで起こった被写体と私の感情の変化とか、関係性とか、身体性とか、空気とか、風とか、動きとか、オーディエンスとか、天気とか、いろんな、本当にいろんな要因がたまたま重なってああなってしまった。それは失敗とかじゃなくて、ひとつの結果なのである。結果でしかないのである。その撮影のコンセプトも、写真そのものではなく、そこで起こったことがに重点を置くようなものだった。

 だけど、それじゃあ私がやっているこれ、は、本当に写真と言えるんだろうか?
 私は上記のようなことをこの千倍わかりやすくしたポートフォリオを提出して、とある美大の、写真の学科に合格した。ポートフォリオに載せた写真はどれも美しくはないし、上手でもない。でも受かってしまった。本当に大丈夫なんだろうか。大学に合格して初めてデジタル一眼カメラを手にして写真を撮り始めた最近特に、私がやっていることは「写真行為」なんかではなく、別のなにかなんじゃないかと思うようになった。私の「写真行為」は「写真」である意味があるだけで、所謂「写真」の文脈で語られる何かではない気がする。私は、デジタルカメラで写真を撮るのは正直楽しくない。美しいものが、美しいままただ撮れてしまうから。まあ、デジタル写真が楽しくないのはデジタルで撮るとフィルムの時誤魔化されていた単純な写真の下手さが残酷に見えてしまうからって言うのもあるかもしれない。甘えたくないなあ。だからそれはどうにかしなくては。今更だけど私はフィルムだろうがデジタルだろうが、写真を撮るのは上手くない。謙遜とかじゃなくて事実として。でもちゃんと上手になりたいとも思っている。ただ、上手になりたいと思ってるけど、そこで言われている「上手さ」は私がやりたいことに直結はしないのである。まあでも、写真が上手くなればカメラを使って私がやりたいこと、カメラ以外でやりたいことにも応用が効くことがわかっているので、そこは普通に頑張りたい。
 大学、受かってしまったけど大丈夫だろうか。大学で学びたいのは確かに写真の技術(だけ)ではなく、表現者として社会の中で表現をし続ける力だった。だから、別に全く大学に行く方針もやる気も変わってないんだけど、でも、大学が生徒であるわたしに求めているのは…?

 ともかく、二重露光してしまった写真と言えるかもわからないその長巻のフィルムは、どうにかそれに適切な世への出し方を探らなければと思っている。試練だ。私が4月から通う大学の教授が著書で、写真家は「撮る」ことよりも、その後の方が重要だし難しいと言っていた。写真から撮影者の主観性をなるだけ排除し、適切な展示方法・編集方法を探ること。私はかねてよりこの世の全ての人が表現をしていると思っているけれど、その中で社会の中で「表現者」として生きている人は、適切に自身の作品を選択し、提示することができる人だとも思っている。私は社会の中で「表現者」として生きている人でありたい。そうなりたい。だから、大学云々はともかく、頑張る。長巻のまま帰ってきたフィルムをどうするのか、も。撮るのが楽しくない「美しい」写真を撮ることも。頑張る。

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