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必要に駆られる

 ずっと前から身体表現には興味があったが、最近は個人的な身体の癖について考えている。例えば私は笑う時、右の口角が先にあがる。そして口角というより頬の筋肉が上に上がっている気がする。他にも歩く時、右足が地面についている時間の方が左足がついている時間よりも長い。靴の裏を見るとよくわかる。明らかに右足の底の方が削れている。特につま先の方。そしてそういう癖は、肉体的・精神的な様々な要因が重なって生まれていると思う。そしてそれらが全て連携している。
 最近は日々の生活の中で、こういうことを考えながら身体を動かしている。

 こういう身体の癖をつかって作品を制作したいと思っている。演劇なのか写真なのかダンスなのか。メディアや支持体は全く考えていないが。

 小さい頃から、お遊戯会のダンスが苦手だった。同じ振り付けで踊っているはずなのに、私だけ違う動きをしていた。痩せてるとか太ってるとか背が高いとか低いとか、そういう身体的な違い以上に、もっと細かな、だけど重要な違いを無視することができなかった。私の身体の使い方は、マークシートのテストで、全部1ずつズレて答えを書いていて、全部惜しいけど最終的に全部間違っている、みたいな間違い方をしている気がする。
 もしそのズレを肯定し、全て作品化することができたのならば、私は私として初めて自分の身体で生きることができる気がしている。(だから「舞踏」というジャンルに興味がある。)

 でも私はずっと、自分の身体を思うように動かせていない、という実感がある。癖を作品にしたいとか、それ以前の話だ。

 実は「火星はもうすぐ死ぬ」はそういう身体の癖(当時は「癖」という言葉で呼んでいなかったが)を作品化したいという欲望が最初にあった。結局、自分の身体が思うように動かせていない問題が浮上し、そしてその理由の一つである、客観と主観の差異にテーマを設定し、火星は結局ああいう形になった。

 ではその、「自分の身体を思うように動かせていない」という実感は一体なんなのか。思うに、肉体が、「必要に駆られていない」んだと思っている。

 私が以前2人組の劇団に入っていた。でもそれは2人で稽古してひとつの作品を作ろう!というより、もう1人の人が様々なことを私に教育する場であり、それを作品化している劇団だった。そして、明言はされていない(と思う?)が、劇団の第一回目の公演のテーマは、「舞台に立とう」だったのではないかと認識している。
 舞台に「ただ立つ」ことは簡単だ。実際私は中学生の時、別に好きでもなんでもないのに惰性で演劇部に入っていたことがある。(どこかの部活に入部しないと学校を辞めさせると先生に脅されたのだ。)その時、私は声も出ないしセリフもままならないしそもそも演劇が好きでもなんでもないのに、簡単に舞台に「立っていた」。ただ一段段差を登れば良いだけだから、簡単だ。だけど、当然舞台に立ってそれをちゃんと作品にしようと思ったら、ただ「舞台に立つ」だけではダメなわけで。私は今、舞台に立ってそれを作品化しようとした時に必要なものは、「必要に駆られること」だと考えている。
 劇団第一回目公演の際、一緒に劇団をやっていたあの人は、私が舞台に立たざるを得なくなる状況を作り上げた。私がやりたいこと(考えていること・思っていること)を舞台上に繋げるために、精神的にも肉体的にも私を舞台に立つ「必要に駆られる」状況を作った。私が舞台に立つ必然性を作ったのである。具体的なことは書けないし書かないが、とにかく舞台セットや客の状況、物語と私のバックボーン、その全てを舞台装置とし、私を舞台に引き上げた。

 今度は自らの身体に対し「必要に駆らせる」ことが必要だ。
 精神的には必要に駆られているのだが、それに肉体が追いついていない。精神と肉体が繋がっていない。そのためには何が必要なんだろう?やはり、自分の身体に自覚的になることか。

 まあでも、私は私が自分の身体を思い通りに動かせない人間でよかった、と思っている。だってそれは、必要に駆られないと自分の身体で舞台に上がることができないということだからだ。中途半端だって、気付けている。

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