見出し画像

おとなになること

 あの童話作家は、おとなにならないために自殺したらしい。
 おとなになることとはなんだろうか。親と仲良くできるようになることだろうか。にきびが吹き出物に変わることだろうか。できなさが、個性から欠点に変わることだろうか。社会のルールや常識に、なんの疑問も持っていないように振る舞い従うことだろうか。それは諦めだろうか。
 彼の中には、「こども」と対比された「おとな」像が恐怖の対象として存在したのかもしれない。そしてそれが、描けなくなることへの恐怖なのだろうということは容易に想像ができる。
 私はこども写真館で働きながら、大きくなったねえ!という声が脚本のセリフのように祖父母両親から吐かれる模範的幸せの中で、あなたが大人になることに対して持つ絶望について思いを馳せてみた。

 最近、大学に合格して心と時間に余裕ができたから、高校を卒業して以降会っていない中学の時からの親友に会った。中学生の頃から、私は彼女のことを心から尊敬している。彼女は私がどんなに頑張ってもできないことを、呼吸をするかのようにこなす人だったから。彼女は、社会のルールや常識に、なんの疑問も持っていないように振る舞い従うことができる人だった。というかむしろ、疑問なんて本当に持っていなかったんだと思う。彼女は、それがルールで常識だから、という理由だけでそれに従える人だった。だけどそれでも、色々なことに疑問を感じて納得できないと従えない私とも仲良くしてくれた。「あんたの彼氏サイテーだね」と言われることは何度もあったけど、「別れた方がいいよ」と言われたことは一度もなかった。だから私たちは友達でいられた。
 久しぶりに会った彼女は、もう一眼見てわかる「東京の女子大生」って感じで、厳しい校則から解き放たれた髪はアルバイトの規定に引っかからない程度の茶髪で、体型を隠す地味でも派手でもない無難な服を身に纏い、男と金とデパコスの話しかしない人になっていた。
 ああこういう人だったよな、と思い出した。県内トップクラスの進学校に通っていた中高生の時、彼女は勉強と偏差値の話しかしない子だった。進学校の生徒として、求められていた模範的生徒であり続けた。そして模範的生徒として無事模範的な大学に入学した彼女は今度、社会的・文化的に模範的な大学生像を、自然と表すようになっていた。
 きっとこの子は、年齢的あるいは立場的に大人になったらその瞬間に大人としての模範的な振る舞いをするんだろう。
 悔しかった。

 私は自由になるために、自分がやりたいことをやるために、無理矢理大人のふりをしたり、振る舞いが結果的に「大人的」「子供らしくない」と言われたりするようなことが多かった。生意気だった。見た目と伴わないから、特に。ただ自身がならざるを得なくて成った自らの様に、大人とか子供とか、成長とか退化とか、大人、子供、らしいとからしくないとか、勝手に言葉を投げかけられてきた。きっと私はこれからも、不釣り合いな大人さと子供さを抱えながら、年齢や立場に関係なくただ居続けるしかないんだと思う。きっとあの子は、私が成らざるを得なくて得てきた大人性を、成長過程の中で自然と身につけて、私が失うことのできなかった子供性を、なんの疑問もなく失えるんだろう。
 でも私はそれでも、早く大人になりたかった。今でもそう思っている。
 私は自伝紙芝居「月色のアイス砂の味」を上演するたび、「早く大人になりたい。早く高校を卒業したい。早く18歳になりたい。そしたらもっと、自由になれるから」と、何度も何度も何度も何度も唱えていた。はやく大人になりたいと泣いた夜が何度あっただろうか。私にとって大人とは、自由の象徴だった。それは私の見てきた大人が自由人だったからではない。不自由で閉塞的な子供としての自分と対比して、大人を夢見てた。もちろん大人になればその自由の責任を自分で取らなきゃいけないことも分かっていたけど、その責任すら、負ってみたかった。責任を感じることすら、私にとっては自由なのである。むしろ、責任の伴わない自由なんて、私にとっては本当の自由ではないのだ。

 そしてそれは表現にも言えることで。
 先日、とあるイベントで、その日初めて会った男性を前に、写真集「火星はもうすぐ死ぬ」のプレゼンをした。私が1年前企画・モデル・編集をして制作した極寒スク水写真集だ。
 そしたら客の男性に、「すごい強い目をしていますね」と言われた。「こんなに攻撃的な目をしなくてもいいのに」とも言われた。確かにそうだと思った。きっと「火星」は、ただの地下アイドルの写真集として見られ終わることもあっただろうし、知らないおっさんのズリネタになって終わることもあっただろう。そこまでいかなくとも、被写体の視線や、視覚的な強さや、スクール水着や場所性や、私の身体が持つ意味の強さだけが伝わって、それで終わってしまう危険性があったと思う。その先まで伝わって、作品を通して会話できた人が一体どれだけいただろうか。私はそれすらも把握できていない。当時はそれでよかったのだ。作品が持つ強すぎる意味性を分かっていなかったから。いや、分かっていたけど、そんなことどうでもよかった。伝わらない99人より、伝わる1人とだけ会話していたかった。そのスタンスは大事だし、全ての人に伝わって欲しいとは今も全く思っていないけど、間違って伝わりすぎてしまう危うさを分かっていないことはあまりにも危険すぎる。だって意外と世界は芸術なんかですぐ形を変えてしまうくらい柔くて脆いと知ったから。それが前向きで希望に溢れた変化だったらいいけれど、それが作者の思い通りの変化だけだったらいいけれど、そんな絶対は基本的になくて、私が世に出した作品で人が死ぬことも、全然あり得ない話ではない。
 私は相変わらず、全ての人間が芸術家だと思っているけれど、私は自分の作品の責任を、自分が世界を変えてしまうことへの責任を自分で負わなければならない側の芸術家でありたい。そのために「ちゃんとした」教育機関としての、美大に通おうと、決意したのです。

 「火星」は自分の成長過程においてなくてはならないものだったけど、あれがもっともやりたいことではないし、あれで満足してはいけないと、改めて思う。エンターテイナーは「火星」を褒めるけど、私がやりたいのはエンターテイメントではないのだから。「火星」は結構、わかりやすくて面白くて気持ちの良いサブカルチャーのエンターテイメントで終わってしまう危うさがあった。(※自分がやりたいことがエンターテイメントより高尚なものである、と言いたいわけではもちろんない。エンターテイメントはエンターテイメントで意味があって、命を削ってそれをやっている人がいることも分かってる。)
 だからきっとこの写真集を売ることがなくなった時、私はまた一つ大人になるんだろうと思う。この写真集は、手元にあと4冊残っています。再販はしません。少しでも、火星が私のこども時代の記録ではなくて、生き続ける作品として捉えてくれる人の手元に届いて欲しいと願っています。

 もう私は「火星はもうすぐ死ぬ」のような写真集は作れないんだろうな。私は大人になったから。あの時より自由になって、「火星」を失った。もしかしてあなたが持つ大人になることへの絶望はそういうことなのだろうか。失うこと。
 だとしても私は、抗うことのできない時間という絶対的な軸の上で揺蕩うあなたを、制度的こども時代の最後に、写すことができて幸せでした。
 そして私は、絶望を通り越した先にある、どうしようもなく大人になってしまったあなたのことも撮りたいと思っています。きっとあなたは失い続けても失えない、美しさと強さを持っている人だと思うから。

 まやちゃん、20歳の誕生日おめでとう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サムネの写真 
モデル kutekat・辻凱貴
撮影 わたしのような天気

写真集「火星はもうすぐ死ぬ」通販↓
(2月4日土曜日の高円寺のスナック禁断でお店番する時物販として持っていくので、そこで手渡しで販売すること、取り置きなども可能です。DMにてお気軽にご相談ください)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?