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音楽になる前の音の話

 「もしよかったらこれ(びびちゃんのCD「あるある超えないと!」に収録されている楽曲「大人になりたかったらしい」。天気の声が入ってる)についてのコメントを天気ちゃんもちょっとかいてほしくて、つくったときどうだったとかでもいいし、曲聴いた感想でもいいし!超長くても1行でも」とびびちゃんから連絡が来たのが4月3日。この文章の締め切りは4月8日。17日前だった。締め切りといっても、私が締め切りがないと書けないから適当で良いのでと無理矢理決めてもらったものだからそんなに厳密なものではないけれど、でも、そんな締め切りを17日もすぎて、私は、まだ、全く、書けていない。
 音楽に関する文章って難しい。難しすぎる。だって音楽は私のものじゃないから。とても客観的な言葉なんて綴れない。
 だから、せめて自分が一番誠実でいられる文章を書こうと思い、素直に自分のことだけを書くことにした。自分のことなら嘘をつくこともできないし、気を遣うこともない。気を遣う必要なんて本来ないけど、でも使っちゃうし、そうやって書かれた私の文章は大抵しょうもない。

 まず最初に書きたいのは先日のライブのことだ。4月8日、下北沢モナレコードで開催された『ついに♪ 魔法少女、二十歳の誕生日!』。びびちゃんの生誕祭だ。私はOAとしてトップバッターで舞台に上がった。
 私は新作の紙芝居「水を抱く女」を上演した。この紙芝居は高校3年生の夏に作った紙芝居「月色のアイス砂の味」の続編である。「月色」は私が生まれてから中学3年生くらいまでの、自分を自分と認識するまでの大体の自分史を物語化した作品だ。その続編である今作は、舞台に立ち始めてから自覚的になった私の色んなもの、性とか、家族とか、身体とか、舞台に立つことそのもの。それを、誰かから与えられたものとしてではなく、惰性ではなく、自分で選択して自分のものにしようとしているんだ、という経緯を物語にした。そしてそれをパフォーマンスにすることで、観客との向き合い方とか捉え方とか、舞台への立ち方とか、そういうことをも扱おうとした。
 でも、ライブの前から、何となく嫌な予感がしてた。失敗する予感ではないが、なんだか、作品が完成した時点でもうすでに恥ずかしかったし悔しかったのだ。
 そして予感は的中した。ライブをやった夜、ひどく落ち込んだ。
 単純にあのライブにおいて私はものすごく場違いだったのである。場違いなの最初からわかってたんだけど。びびちゃんやはる陽。ちゃんの、本当に本気でエンターテイメントをやっている人たちの、観客を楽しませるとかそういう気持ち、それと向き合う自分が私にはなかった。彼らは観客に何かポジティブなものを与えるために表現をやってて、それで観客の前でパフォーマンスするのは筋が通ってる。でも私は、エンターテイメントがやりたいわけじゃなく、舞台に立つことがただ私にとって最も自然な行為だから立っているだけなのだ。
 私にとってパフォーマンスをする時の観客は舞台装置「人間」でしかない。日常的にも、この世は自分だけがパフォーマーで他が全員舞台装置だっていう感覚を持っている。失礼だよなあ。どうやって向き合ったらいいかいまだにわからない。観客が自分勝手で自我を持ってくれているからまだなんとか成り立ってる。でもその構図は私だけじゃなくて、全ての人にとってそう。私が特別なんじゃない。AさんにとってはAさんだけがパフォーマーで他の人はみんな舞台装置。Bさんにとっても、Cさんにとっても、あなたにとっても、そう。この世の人間全てが日常的に「演じる」(ニアイコールパフォーマンス)をしていて、舞台はそれをより明確にする場所なのだという感覚がある。だから私は誰か他の人のライブやコンサートや公演に行く時も、いつ舞台に上げられてもいい格好をしていく。というか、舞台を生で見ているということはすでに舞台に立っていることに等しい。
 ごちゃごちゃ言ってしまったけど、まとめると私が舞台でやりたいこととは、舞台と客席の境目をなくすことであり、観客全員の日常を全て舞台化する(そうであると自覚させる)ことなのだ。
 だから少なくとも私にとっては、舞台でやりたいことや、舞台への認識は、自分が舞台に立つことでその辻褄を合わせることができる。でもこんな感覚を持っているのはきっと私だけだし、エンターテイメントを見に来た人にとって私の存在は鬱陶しいことこの上ないだろう。そんな私が舞台に立つのは、なんて傲慢なんだろうかと思うし恥ずかしい。そういう思想を持ってる私が崇高なエンターテイメントやってる人と同じ舞台に立って何もなしにうまくいくわけないし、崇高なエンターテイメントをやってる人に「こんなパフォーマンス見たことない!新しい!」と褒められて本当に恥ずかしかった。場違いなら場違いなりに何かが必要だったのだ。と、反省した。

 酷い文章だ。本当に苦手なんだ。この文章が書けない最大の原因がわかった。これは私のための文章じゃないからだ。びびちゃんのためであり、びびちゃんのファンのためである。
 きっとびびちゃんは、この文章をすごく簡単に上手に書くことができるだろうなと思う。それは文章の才能とかではなく、彼女自身の特性によるものだ。

 私からみたびびちゃんを一言で言うと、サイコパス。びびちゃんの言葉は全て、まるでセリフのようだと思っている。

 映画や演劇の脚本での「セリフ」とは、鉤括弧に囲まれた言葉であり、カメラ・観客の前で放つ言葉である。そしてそれは、その状況・相手に相応しい言葉だ。この相手にはこう言うべきだ、この状況ではこう言うことが相応しい。そう意図に沿って脚本家が書く言葉、それが「セリフ」である。
 私はびびちゃんと初めて出会った時から、その印象を彼女に抱いている。私からは、彼女の言葉の全てが鉤括弧に入って聞こえていた。びびちゃんには、その瞬間に言うべき言葉を、相手が求めているだろう言葉を、瞬時に察する能力があった。そして彼女の音楽にもそれと似たものを感じていた。というより、そういうセリフ的なびびちゃんの日常会話の先に音楽が当たり前にあるような気がしていた。もちろん常に相手にとって心地の良い言葉や行動や音を選択して表現するわけじゃないけれど、その心地よさとばっちり合致していないものを表現しているとしても、ああこの人は全部わかってやっているんだろうなあ、というような感覚がずっとあった。太鼓の達人とか、リズム天国とかいう音ゲーのような、私たちがいるこの空気中には、そのリズムゲームで流れてくる音符みたいに、ここを押すと正解、みたいな透明なボタンが溢れてる気がしている。その正解は人によって違うから、選択するべき音符はみんな違うけど。びびちゃんの動きや、言葉や、音楽は、その音符を全て正確にタップしているような、そういう感覚がある。「MC全然考えてきてなくて、どうしよう笑」とか「適当だよ〜」とかいうびびちゃんの言葉も、本当に本当に全部「わかって」やっていると思う。恐ろしい。
 そんなびびちゃんは以前私に「音は、人に聞かれて初めて音楽になる」という話をしてくれたことがある。人が聞かないと音は音楽になれないということだ。その話を聞いて私は彼女のセリフ的な話し方の意味がわかった気がした。おそらく、彼女は、自分が放つ言葉を、音楽を、他者の耳で同時に聞くことができる人なのだ。「中道ひびき」が演劇作品なのだとしたら、中道ひびきは彼女自信が演者であり舞台監督であり脚本家なのであった。そして観客の中にも中道ひびきは存在した。
 私は泣いている人に「辛いよね」と言えない。辛くないかもしれない人に「辛いよね」ということはその人を弱いというようでとても失礼だから。だけどびびちゃんは、その人が本当に辛いということをちゃんとわかった上で「辛いよね」と言う。それは救いになる。
 そういう意味で、彼女は私の知る人の中で最もエンターテイナーだ。すごい。本当に心から、尊敬してる。

 そんなびびちゃんに突然、「もしあいてたらでいいんだけどうちでレコーディングしたいことがあって」とびびちゃんの家に呼ばれた。何をやるのかよくわからずに指定された時間にびびちゃんが一人暮らしをしているマンションに行くと、台本を渡された。このセリフを、いろんな言い方で読んで、と言われた。「でも私演技が異常に下手くそで言葉の抑揚が異常にないけど大丈夫?」と聞いたら、「だから天気ちゃんが採用されたんだよ」と真顔で言われた。だから言われた通り、明るく、暗く、無表情で、それぞれの短いセリフを読んだ。セリフは多分びびちゃんの日常の中で、口に出す前に、声という音になる前にこぼれ落ちてしまうような言葉だったんだと思う。
 その後、私はびびちゃんと今回のアルバムのテーマである、「大人になること」について会話した。一時間くらいだった思う。私は話が長いので、切り貼りするの大変だろうなあ、と思いながらでも全く気を使わずたらたらぶつぶつと、会話した。

 そして4月3日、びびちゃんからLINEで完成版の『大人になりたかったらしい』の音源が送られてきた。
 音源を聴いた時の最初の印象は、「びびちゃん、全部喋るじゃん」だった。
 1:47秒あたりの「やっぱー」から始まるびびちゃんの長い言葉。こんなびびちゃんの声聞いたことがなかった。というのも、その言葉は鉤括弧に囲まれてなかったのだ。セリフじゃなかったのである。あくまでも私の感想でしかないけど、でも、でも、初めて聞くびびちゃんの、エンターテイメントとして加工されていない生の声、友達(私)と話しているときよりもっとセリフじゃない声、だった。いつものびびちゃんのセリフ的な話し方が、だんだん会話に溶けていくようだった。セリフでしかものを話さないびびちゃんが、誰かに伝えるためではない言葉を、自分が言いたいでの言葉を、「音楽になる前の音」を、楽曲の中に組み込んでいるような感覚があった。「音楽になる前の音」とは「セリフになる前の言葉」であり「踊りになる前の動き」であり「写真になる前の像」である。
 一方で私の声は、まるで私の声じゃないみたいだった。自分の声を録音して聞いたら「こんなキモい声だったの!?」という現象はよくあるけれど、それではない。舞台や映画で何かの役を演じている時にごくごくたまーーーーに起こる、自分が自分じゃなくなる感覚がそこにあった。でも自分がそうなっている様を初めて客観的に見た(聞いた)し、それ以前に実際レコーディングをしているときはそんな感覚などなかった。レコーディング、加工、音楽の中に組み込む、という制作過程を経ることで、音楽に加工することで、私は、びびちゃんにびびちゃんを演じさせられてしまった。
 うわあああ
 多分、いつものびびちゃんのリズムのある音楽があって、びびちゃんを演じる無機質な私の声があって、それをうまく組み合わせて、びびちゃんはびびちゃんの言葉を加工されていない生の声として聞かせることができたのだと思っている。意図的かはわからないが。私はあのびびちゃんの長い言葉、切実でヒリヒリしていて、楽曲の中での一番の聞きどころだと思っているよ。

 エンターテイメントが云々とか言っておきながらも、私にも普通に好きなアイドルとか、好きな歌手とか、好きなパフォーマーがいる。だけど彼らのことをライブなどで生で見て生まれる感情は、幸せとかテンション上がるとか楽しいとか元気出るではなく、死にたさとか苦しみとかなのである。それは彼らの扱っているものが暗いからとかではなく、私の好きなアイドルとか歌手とかパフォーマーとかは、自分のやりたいことを的確に表現しているひとだから、そういう人を見て、悔しくて、落ち込むのだ。多分自他の境界が危ういんだと思う。自分でもわかってる。でもどうしようもない。びびちゃんのライブもそうで、ライブを見に行くのはとても怖い。だけど敢えて殺されるべく、私は4月17日のびびちゃんのバンドの結成イベントに行った。案の定、みんなは何も悪くないし、作品はとっても素晴らしかったのに、というかだからこそ、「お前に舞台に立つ資格はない」って改めて言われた気がして、ひどく苦しかった。涙が出た。落ち込んだ。だけど同時に、興奮した。

 私は、自分が完璧になれない人間で良かったと思ってる。彼女のような天才が近くにいて良かった。まだ戦えるし、まだ広がれるから。

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サムネの写真は中道ひびき楽曲「りっか」より
撮影 村山莉里子

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