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化け物だって愛がある

 17歳の夏。スカイツリーの袂に建てられた竹の舞台で、ストリッパーの牧瀬茜さんの芝居と踊りを見てから私の将来の夢は、ストリッパーになることだった。名前は以前から知っていた牧瀬茜さんは、生で見ると本当に、女神様だった。本当に美しかった…。
 私はもちろんストリップの「脱ぐ」ところに憧れを抱いているわけではない。全てを曝け出し、あの舞台に立つことは、生まれ持った自分の身体を魂の入れ物として惰性で持っているのではなく、自分で選択して得ていることの何よりもの証拠だと思うのだ。
 だけど、今すぐあの舞台に立つのは違う。パフォーマンスのレベル云々もあるがそれ以前に、今の未熟な私が脱いでしまうのは、表現から逃げてしまう事になる気がする。私が今脱いでしまったら、脱ぐことで自分以外の人たちと無条件に対等になれると思ってしまいそうだ。脱ぐことに抵抗は本当にない。でもそうじゃない。もっと強くならないといけない。私が今やるべきことは。

 アイドルになりたい。

 それは有名になりたいからでも、名声が欲しいからでもない。承認欲求もクソもない。
 私の身体は、私の魂が私になるずっとずっと前から、私ヅラをしてそこに居座っている。しかし、私は、仕方なくではなく、惰性でもなく、この身体を自分で選び取った自覚がある。だから、この身体で、脱ぐことも脱がないことも、見られることも見られないことも、女の子でいることもいないことも、愛することも愛さないことも、全て選択して得ることができるはずなのだ。その自由を証明するために私は、見た目も中身も過去も未来も、何層にも重なった「私」そのものが作品になってしまう、アイドル、になりたい。
 そうじゃないと、私は世界を愛せない。
 私はたまたま女の子に生まれてしまったから、たまたまかわいかったから、たまたま弱々しい見た目だったから、世界に、社会に、安易に愛させられてしまう。「愛すること」がまるで、意思など関係なく、わたしのような人たちの役目のようにされているのは気のせいだろうか。天邪鬼なだけかもしれないけれど、そういう状況で愛してしまったら自分が自分じゃなくなる気がして、「愛する」ことができないでいる。「愛している」は大好きも大嫌いも孕んでいるはずなのに、愛する自由を奪われている意識から無痛覚になるために私は、大好きと大嫌いと愛しているを、全て失わなきゃいけない。そんな自分が心底嫌いだ。
 私は、自分の全てが作品になってしまうアイドルになれたなら、この世の全てを愛せるのではないかと思っている。

 だけど私はアイドルオタクの経験がない。好きなアイドルはいるにはいるけれど、それに傾倒して愛せたことがない。だからアイドルの文化がわからない。どうしてチェキが売れるのか、握手会やアイドルのグッズの需要がどこにあるのか。なんでサインが欲しいのか。(チェキはそのアイドルへの投げ銭的な意味があると聞いた。投げ銭というやり方は好きだ!少し納得した。でもじゃあ何をどう写したら「良い」のかはやっぱりわからない。)それらが「作品」だと思えないのだ。その人が写っているからではなく、その人が作ったからではなく、作者が誰だとしても「作品」だと思えるものしか私は作りたくない。売りたくもない。だから逆に、作品として良いと思ったものはアイドルのグッズでも買う。写真集をグッズというのかわからないけれど、そういう意味でアイドル写真集を買ったことはある。だからミスiDを通して私を知ってくれた人に「尊い」とか「推し」とは言われるのも違和感だ。尊くは、ないだろう。人間だぞ。私は生々しく汗臭く痛々しくて病的なところで人間でいたい。偶像になりたくない。だから、だから私はスクール水着で正月の山に登ったのだ。
 今いるアイドルやアイドルオタクの人を侮辱しているつもりは本当にない。私とやりたいこと、好きなことが違うんだと思うだけ。わからないだけ。(本当はわかりたい、本当に。)
 
 ミスiDで賞をとったからだろうか。よく聞く話だけど例によって私も最近、とある地下アイドルのスカウトを受けた。あんなのスカウトじゃないのかもしれない、スカウトなんてされたことないからわかんないけど、プロデューサーを名乗るそのおじさんは私に、「君には〇〇というアイドルグループに、清純派アイドルとして入って欲しいんだ」と言った。死にたくなった。清純派アイドルなんて(笑)。黒髪で、ロリっぽくて、背が低い感じの女の子なら誰でもいいんでしょ、と思った。でも焦っていたから、その違和感にすぐ気付けなかった。
 そしてこの前、私の好きなネットアイドルの女性が、アイドルグループをプロデュースするよ!アイドルになりたい女の子募集!とツイートしていた。これもうっかり、応募しそうになってしまった。彼女がどういうアイドルをプロデュースしようとしているのかはわからない。でも、ステージに立った自分を想像したとき、サイリウム振ってるオタクの中に「わたしのファンでいてほしい人」が全く見えないことに気がつき、DMの文章まで書いたのにそれを送るのをやめた。焦っているのに気がつけた。私、焦って何も考えずなんでもやるやる!っていうのやめる!!そのアイドルは、お客さん側として応援したいと思う。

 私は元来「将来の夢」という言葉が嫌い。だってなりたいと本当に思っていたらもうなっていなきゃおかしいんだもの。思考より行動がつんのめるほど先だった私はずっとそう思っていた。でも、ストリップのあの舞台に立つことだけは唯一、私の大事な「将来の夢」だ。それがあるから私は焦って転んじゃうのを、ちょっとだけ抑えられる。
 そしてアイドルになりたいことは、夢じゃない。ストリッパーになる踏み台としてアイドルをやりたいわけじゃもちろんない。むしろ私が自然であるために、私はアイドルにならなきゃいけないのだ。

 だから、目の前にあるものを誠実に見つめて、ちゃんと歩いていこう。
 あの高い山の上から漏れ出る美しい光を目指して走っているとき。ふと誰かに言われて目線を落としてはじめて、1ミリも進めずその場で暴れていることに気付くってことが今まで何度もあった。
 届かないあの光に絶望するのは、もう嫌だ。

(写真の撮影は小染友希さん。2021年秋に開催されたイベント「まだ生まれてもいないのに」より)

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