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アルコール依存患者と家族の話。

今回のnoteは、
アルコール依存の方や家族の方の助けにはならないと思います。
どういう経過をたどるか、の1例としては参考になるかもしれません。

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医者の不養生、とはよく言ったもので。
私の父は、亡くなる直前まで1度も病院に行かず、
アルコール依存症に伴う肝硬変、肝臓癌4つを発症し
そしてその癌が破裂をしたことにより命を落とした。


医院を開業した祖父は、若い頃からとても苦労をしたらしい。
曽祖父は祖父を置いて満州に行き、祖父は親戚の家で世話になっていた。
その中で祖父は医者を志し、第二次世界大戦中は海軍の軍医として船に乗っていた。
終戦後、曽祖父は妾を連れて帰国し、祖父に金銭的に依存したりと
ずいぶんと苦労をさせられたと聞いている。
余談だが、私は幼いころに曾祖母とよく遊んでもらっていた。
しかしことあるごとに曾祖母に対しての祖父のあたりが
強いことに対し幼心に不思議に思っていた。
今思えば、曾祖母は後妻だったからだろうと合点がいく。

戦争が終わり、祖母と結婚し、医院を建て開業。

そんな中で、祖父は父にはかなり厳しく当たっていた。
父は長男だったため、医者になって後を継ぐのは当然という考えであり
成績が悪いと、集めた切手を焼き捨てられたり、
殴られたりは日常茶飯事だったようだ。

そして父も医者になり、祖父の後を継ぐことになるのだけれども
祖父はとうに成人した父に対して、支配的な態度を崩さなかった。
父も、幼少期に刷り込まれた祖父の支配から抜け出すことができなかった。

祖父は、父に対し、子供たちを医者にして後を継がせろ
自分が開業した医院を途切れさせるな、という圧力をかけ続けた。

残念ながら私はそこで反発し全く勉強をせず薬剤師になり、
弟は医学部に入学したものの元来あまりメンタルが強くない為
留年を繰り返してしまっていた。
そして、父は祖父に自分の息子が留年したことすら言い出せなかった。

そんな中、父が逃げたのはお酒だった。

元々お酒が好きだったのもあるけれど、
何年もかけてお酒の量が増えて行った。
お酒を飲むと感情の制御ができなくなり、店員に対し
些細なことで怒ったり怒鳴ったりを繰り返した。
まだ今より飲酒運転に対し寛容だった時代に
お酒を飲んで車に乗って、田んぼに車を落として帰ってきたこともあった。
自分がどこにいるかわからずに家に電話をかけてきたこともあった。
夜中にしこたま酔っぱらって帰ってきて大声を出すのは日常茶飯事だった。

そして、だんだん朝からお酒を飲むようになった。
朝から缶チューハイをあける音がすると耳をふさぎたくなった。
近所の居酒屋は悉く出入り禁止になる為、家でお酒を飲んで
母と弟に言葉の暴力が向かった。

固定電話が鳴るたびに、ニュースで車の事故が報道されるたびに、
父が酔ってどこかで何かをしたのではないかと怖かった。

何回も父を説得した。
父は、自身がアルコール依存症であることを自覚していた。
あまりお酒が入っていないときは、徐々に量を減らすから、と言っていたが
酔っているときは酒で死んでも良いと豪語していた。
お酒を飲まないで、というと激高して怒鳴り散らすこともあった。

既に家を出ていた私は、実家に寄り付かなくなった。
近くに住んでいるのに、父とは年に3回程度しか
顔を合わせない状態が10年程度続いていた。

そして2017年2月、祖父が亡くなった。
祖父に対しては、父を苦しめていた元凶だと思っていたため
亡骸を見ても涙は出なかった。
(父の事だけではなく、そもそも前時代的な男尊女卑、内孫外孫の
 概念が折り合わなかったこともあるのだけれども)
父は何とか飲酒を抑えて喪主を務めた。
支配的な祖父が亡くなることで、少し父の飲酒が減らないかと
期待したけれども、叶わなかった。

2017年6月、母から連絡があった。

パパはもうあまり長くないかもしれないから、会ってあげて。

今まであまり実家に顔を出さなかった罪悪感もあり、
大学から帰省している弟も一緒にバーベキューに誘った。
父は、顔色も悪く痩せていたが、嬉しそうにしていた。
その時に撮った写真が父の遺影となってしまった。

それから2カ月ほどたったある日、母から
診察時間になっても父が起きてこないと電話があった。
救急車を呼び、扉には鍵がかかっていたため窓を破ったところ
夜中にトイレに行こうとし、転倒し立ちあがれなくなった父がいた。
救急搬送をかたくなに拒否したため搬送することはできなかった。
私もすぐに父の医院へと向かったが、父は歩くこともままならず
失禁をしてしまう状態だった。
何度病院に行って、と懇願しても絶対に首を縦に振らなかった。

そんな中、見かねた叔父(母の兄)が
半ばだまし討ちのように父を病院に連れて行った。
父は、母の兄と仲が良かった為、外食からの帰り道に
そのまま病院まで父を連れて行った。
父は、怒らずに、してやられた、という顔をしていたらしい。

そこで初めて父は検査を受けた。

重度の糖尿病(血糖値300over)
敗血症
肝硬変からの肝臓癌4つ
糖尿病性腎症

肝臓がんの手術をするためには、身体の状態が悪すぎる。
入院し身体の状態を整えることが最優先となった。

父は、病院で主治医に対し

息子が、まだ医学生なんです。息子が医者になるまでは、どうか。

と泣いていた。

私は、足繁く父の病室に通った。
父が入院していた2ヶ月、電車で片道1時間半の距離を
仕事が終わってから見舞いに行った。
ずっと疎遠にしていたので何を話せばいいのか、
いまいちわからなかったけれど。

敗血症から来る悪寒戦慄、腎症から来る皮膚のかゆみ、
肝機能の低下から来るどうしようもない倦怠感。
ただ、肝機能が低下している割には
比較的意識は鮮明に保たれていたように思う。

病室でお酒を断った父は、ようやく人間らしくなった。
皮肉なことに、今までの人生の中で病室で父と話した2カ月が
一番色々な話ができたように思う。

父は、自分の状態を理解はしていたと思う。
けれど、そこから目を背けるために、日常を続けようとしていた。
病室にいながらも、インフルエンザワクチンの発注をしようとしたり、
診察に復帰するプランをたてたりしていた。

私も、母も、その行動を否定することについては、父がこのまま
戻れないことを認めてしまうようで躊躇した。
かといって今後必要がないであろう、インフルエンザワクチン等を
発注してしまうことは困るので何とか色々と言い聞かせて
先延ばしにさせたりした。

入院から2カ月後の2017年11月14日。

午前2時に母からのLINEで父の心肺停止を知らされた。
夜中に看護士さんが見回りに行ったときにはベッドの上に座っていて、
10分後に見たところベットからずり落ちてこと切れていたと。
肝臓がんの破裂は、一気に血圧が下がって意識を失うので
痛みも、苦しみもなかったでしょう、とのこと。

深い悲しみの一方で、

ああ、終わった。もう、怒鳴り声に、電話の音に、
ニュースにおびえなくても良いんだ。
そして、父も、お酒から解放されたんだ。

色々な思いがこみ上げて、感情をどう処理したら良いかわからなかった。

葬儀はほぼ身内のみで行った。
それでも、話を聞きつけた元同僚の医師、看護師、
担当していた営業さんたちが参列をしてくれた。
家庭外での父の話を聞くことができて、ああ、父は意外ときちんと
医者をやっていたんだな、と亡くなって初めて知ることができた。

一番意外だったのは、喧嘩が絶えず、私の目から見ても離婚した方が
幸せに生きられるだろうと思っていた母が
父が亡くなったことに対して嘆き悲しんでいたこと。
夫婦って、よくわからないと思った。

私は、未だに父に対しての感情を処理しきれていない。
もちろん、嫌いではない、育ててもらって感謝もしている。
好きか嫌いかで聞かれたら好きなんだろうと思う。
父も私の事を深く愛していたと思う。
ただ、父は不器用で、私に対する愛情表現は物を買ってくれたり、
高価な食事に連れて行ってくれることだった。
一方で私は父がお酒を飲んだ時に感情のコントロールができないのが
本当に嫌だった。
一緒に食事に行くと、店員を怒鳴りつけたりするので行きたくなかった。
お酒に逃げたのは、依存してしまったのは父なのだけれども、
お酒さえなければ父との関係はもっと違ったものになっただろうに、と思う。

結局のところ、どうしたら父のアルコール依存を止められたのか、
今になってもわからないまま。



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