深夜の思考
「生きる事」と「死ぬ事」が如何に同義語であるか、という話は何度かしているし、このトピックについて何度も書いているが最近また新たに考えさせられたことがあったので...
単なる深夜テンションです。
いつも以上に何度も同じことを繰り返し長ったらしく書いてるし、多分文と文の繋がりが不明瞭極まりないです。ご容赦を。
「終わり」の自覚
この世の全ての物事には終わりが存在する。
まぁ原子論とか持ち出して来て「死は単なる小さなつぶつぶの離散だ!」とか言い始めたらこの言説も崩れちゃうけど。ここはまぁ、世俗的な意味での「全て」には、世俗的な意味においての「終わり」があるという言説について。
さらに限定すると、人間関係について。
終わりがあると初めから分かっているものに労力を注ぐことにどれだけの価値があるのだろうか?この問いは高校生の時から抱える、僕にとっての難問の一つである。
物事の価値はその効果の期間の長さのみで測られるべきでは無いのは百も承知だ。(炭酸水は開けたてが一番おいしく、時間が経てば経つほどその存在意義を失い、水よりまずい水に成り下がる。)
でも、どうしても、こと人間関係においては、その継続期間は大変重要な要素になってくる。(と思う)
〇年来の友人・〇年続いてるパートナー
など、ethos的側面からのバックアップが非常に大きな意味を持つ。
これに関して、僕は高校2~3年生の時、仲良くて好きだった子に告白をするかを悩みに悩み、こねくりまわした結果、
「え、人って誰かと付き合っても、結婚するか、別れるかの二択しかないじゃんね?んで、高校生から付き合ってて結婚するなんてレアケースだし、てことは十中八九別れるじゃん。え、じゃあ付き合う意味ある?」
と、かなり厄介な思考に憑りつかれていた。
これに関しては当時の日記に更なる考察が載っていて個人的には興味深いと感じたので一部引用する。
うん、これはかなりこじらせているね。笑
でも自分の書く文章はやっぱおもろいし、少し反駁に困るほどの説得力を持っている。
当時僕の中で「終わった気がしたもの」はおそらく人間関係においてその結果ではなくその「過程」を楽しむ・楽しもうとする心であると思う。
(もしくは、そんな未来のことなんか考えられない程に欲望する対象であろうか。)
後者はさておき、大学二年の夏の今現在、僕の心の中には前者の余裕と姿勢があると言えるだろうか。
正直分からない。
種々の人間関係にまつわる場面において、足踏みする理由(言い訳)として常に「だってそれがずっと続くわけじゃないし」が待ち構えている。
どれがどれだけ続くかなんて今の自分には判断出来っこないのに。
こうしたトピックに関して、三島由紀夫の『仮面の告白』に印象的な箇所があったので引用する。
これは思考の転回だった。(コペルニクスもびっくり)(今日読んだばっかの箇所だけど)
別れる方が自然だったのだ。
この認識の逆転を如何に自らの価値観に組み込むことが出来るのか。
これまでの価値観と如何に整合性を保つのか。
これは今後の課題である。
少なくとも高校生の自分よりは少しは前に進んだ気がする。
まぁ足を一歩動かしただけで、それが「前」なのかは誰にも分からないけれど。
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