今一番欲しいものは?
こう聞かれたら僕の今の答えは
「誰とも繋がらないでいる勇気」だ。
今のような長期休みの間、家にいたり一人で過ごすことが増えると、この問題が常に出てくる。
「スマホはもはや俺の臓器!!」
というサビが印象的なキュウソネコカミの「ファントムバイブレーション」という曲に以下のような歌詞が出てくる。(てかこの曲、出てからずっと聴いてるけど、9年前の曲という事実を知って普通に震えた。こわっ)
この箇所での描写に尽きると思う。
曲と同様に「僕ら」はとか言うと主語が大きすぎるので、少なくとも僕は「孤独」の扱いが上手にできない。
ここでの「孤独」はただ物理的に一人で居ることを指さない。
ただ一人で居る事ならしょっちゅうあるし、僕にとっても好きで大切にしたい時間の一つだ。
でも、その「一人の時間」の背後には潜在的な人との繋がりが常に無意識下で待機している。
長期休み中はそうはいかない。
圧倒的質量の自由時間の到来と共に、必然的に「潜在的人との繋がり」がその効力を失う時が多く訪れる。
これは「良い」「悪い」とかラベルを張り付けることが許されるような範疇の話ではなく、ただの事実だ。
こうした意味での「孤独」と上手く付き合うのが僕はとても苦手だ。
あんまり物事が手に付かない。
別に「みんな今ごろ何やってるのかな~」と気になってしゃあない訳では無い。
ただ、「慣れた環境ではない」という事実から来る、落ち着きの無さと「何かしなきゃ」という謎の焦燥感に襲われるのだ。
高校生の時から大体こういう時は決まって「暇つぶし」に近い過ごし方でやり過ごす。良くない意味で時間を効率よく忘れられる(無駄にできる)手段に逃げる。基本的には「寝る」か「ゲーム」だった。
そうして時間を「潰した」先に僕を待つものは、数日後にある、また別の誰かと繋がる予定なのである。
こうした、今を生きるのを辞めた自覚が罪悪感として、ゆっくり僕の心を「無視できなくは無い」程度の強度で締め付けてくる。
高校生の時はゲームで本当に一日丸々を「誰とも繋がらない事への恐怖」と向き合うこと無くやり過ごしていた。
しかし今同じことをやろうとしても上手くいかない。
続いても1時間くらいしか、ゲームによる思考停止が使えなくなった。
こりゃまずい
何か考えなくては。
と考えている中で当たり前の事実に気づいた。
「誰とも繋がらない」ことが大丈夫になればいいのだ
当たり前のことだけど、これはかなり僕にとってはかなりチャレンジングなものな気がする。
この夏休みの目標にしようかな。
「人と繋がらない時間と上手に付き合う。」
うん、頑張ってみようかな
定期的にこのnoteを読み返そっと。
まぁこうして誰かに読まれることを想定してここに書いてる時点で何か自己矛盾している様にも感じるけど。
まぁ今回はいつもみたいにインスタのストーリーにこのリンクを貼らないという行為をもってこの矛盾を解決したことにしようかな。
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