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僕について 第2話「アブラムシ」

「祥はアブラムシな」

兄二人は僕の5つ上と4つ上の年子だった。
長兄が産まれて14ヶ月後には次兄が産まれている。
仕込むの早いな。
量産型両親やん。
量産型両親!!

長兄・敬(けい)と次兄・智(とも)は、歳も近くいつもセットで一緒に遊んでいた。
兄の小学校の同級生達も小車と遊ぶ=小車兄弟と遊ぶという認識だったように思う。
昭和の時代、ファミコンは発売されていたが、まだまだ子供達は外で元気に走り回っていた。
鬼ごっこ、かくれんぼ、缶蹴り、ケードロ、中当て、ろくむし。
読んでる人は知らない遊びもあるかもしれない。
気になったら適当にググって調べて欲しい。
これらの遊びを、当時住んでいたマンションの前の広い駐車場で、兄達とその友人達はよくやっていた。
それを見てまだ小学校に上がる前の僕は、遊びに入れて欲しいに決まっていた。

「けーくん!ともくん!かたらせて!」

遊びに入れてもらう事を九州の方言でかたらせてもらうという。
同級生達の遊びに4つも5つも下の弟を入れると、途端につまらなくなる。
逃げてもすぐ捕まるし、鬼になって追いかけても誰も捕まえられない。ボールは強く投げられないし、投げられたボールは避けられない。
だからって弟を無視するわけにもいかない兄達は、冒頭のセリフを僕に言うのが定番だった。

では、アブラムシがなんなのかわからない人のために説明しよう。
一言で言うとアブラムシは鬼になれない。
鬼にならないから鬼も追いかけてこない。
どんな遊びをしても空気のような存在になり、ただなんとなく参加してるような気持ちになるだけの、いてもいなくても何も変わらない存在。
それがアブラムシである。
そして当時の僕はそんな扱いが辛いとか悲しいとか思ったことは一度もなく、遊びにかたらせてもらえて一緒に遊べたことがとても嬉しかった。
追いかけてこない鬼から逃げ続け、誰も僕にボールを投げてこないのにボールを避けようと必死になった。

「祥はアブラムシな」
「わかった!ありがとう!」

それでよかったのは、僕が子供だったからだ。
ここで学ぶべき教訓は、大人になってからはアブラムシになってはいけないということだ。
自分に課せられた責任、厳しく怒ってくる上司、あるいは自分で掲げた夢や目標。
それらを鬼としよう。
その鬼から追いかけられることも、逆に追いかけることもなく、ただなんとなく人生というゲームに参加しているだけのアブラムシ。
それではいけない。
あの頃の僕と同じになってしまう。
あの頃の僕と同じように、それでなんとなく一緒に楽しめたような気になり、だけど誰かからはなんとなく疎ましく思われ、気がつけば時間だけが過ぎていく。

人生においては、鬼に追いかけられたり、時に鬼になり何かを追いかけたりしながら初めて成功体験を得られるのだ!

僕はなんの話をしているんだ!!!

話がよくわからない方向に行ってしまったが、要するに僕は幼少期から兄達にも少し邪魔くさく扱われ、遠くの部屋から呼ばれて「そこにあるリモコン取って」とか、ジュース買ってこいとかあっちいけとか、ぞんざいに扱われてきた。
近くにいる味方はおばあちゃんだけ。
思えばこの頃から、「いつか見返してやるんだ」という思いは芽生えていたのかもしれなかった。

何の積み重ねもしてないくせに無根拠で自分はすごいと思い、自分の思い通りにならないと機嫌を損ねる超わがままなのに、兄二人に逆らうと殴られる絶対服従の関係。
そんな僕が少しずつ人の気持ちを考えたり、何かが変わり始めるきっかけになった出来事は、小学5年生の頃に起こるのだった。

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