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「ただしさに殺されないために」読了

白饅頭の名で知られる御田寺圭の二冊目の著作が発売。前作も非常に楽しく読ませていただいたので、二冊目が出てすぐに書店に買いに行った。
多くの方が彼の著作の優れた要約的なレビューを書かれているので、本書の内容自体には触れず、違った角度で読了後の感想を綴ろうかと思う。

「ただしさに殺されないために」と題された本書はどういうジャンルになるのだろうか。
というのも書店に行ったとき「そういえばどこの書棚にあるのか」という素朴な疑問が浮かんできた。池袋のジュンク堂という日本屈指の大型書店だから絶対に置いてあるのは確実だ。

最初に浮かんだのは「社会学」「評論」「思想」辺りかと思ったが、結果としては時事評論のコーナーだった。(現在は売れ筋の本のコーナーにもあるかもしれない)
ふむ確かに人文学とか社会科学ではないか・・・僕個人としてはいささか拍子抜けした気分だったが、考えてみたら筆者はおそらくそういうジャンルに区分されることは好まないかもしれない。

さて、御田寺圭=白饅頭氏はTwitterでは一部の界隈から猛烈な誹謗中傷が浴びせられてることでも知られている。一方で彼を支持する層も一定のボリュームが存在していて、積極的に支持を表明する層より、実はこっそり支持していますという層のほうが多い。(と思う)
僕自身は彼のnote購読者なので積極的に支持を表明している支持者の一人と言ってよいだろう。

僕自身の白饅頭氏の印象は暗い闇に仄かな光を照らす街灯のような存在だろうか。
声なき声を可視化する、社会の歪みが行き着く果てに何があるのかを直視させる・・・様々な形容がありうるが、その「記述論的スタイル」は冷静でありながら冷笑ではなく、真の弱者に対する慈愛に満ちた眼差しであって情緒的同情ではない。
それが多くの読者を獲得している理由であり、反発される理由でもあると思う。

記述論的というのは、簡単に言えば「~である」という事実を記述するスタイルだ。本人曰く「事実陳列罪」と自嘲気味に語ることが多いが、一方で「~であるべきである」という「規範論」を殆ど(意識的だろうが)語らない。
彼を批判する人は大抵が「結論がわからない」「具体策に欠ける」というものが多いように見受けられるが、それは彼が注意深く規範を語らないからである。

規範論で記述しないというのは彼の戦略である。(と僕は勝手に思っているが、本当のところはどうなのかはわからない。)
規範論を採用しないことで「教祖/信者」という関係性に堕することを回避しているのかもしれない。

実は規範論をぶち上げた方が、党派性によって「連帯」を促し、政治的なムーブメントは起こしやすい。
しかし疎外された者たちが「弱者ゆえの強者性」/「被害者性ゆえの道徳的優位性」を纏って連帯することで新たな疎外が生み出される矛盾/悪循環こそ彼が批判している本丸の一つであるのだから、自己矛盾に陥ってしまう。

勇ましい「規範論」を語らず「ただ指し示す」ことによって、それを見た人間が各々考える契機とすること。
彼が企図しているのはそういう事だと僕は思う。

もしある種の物足りなさを感じているならば、注意してほしい。
それは規範を語ってほしいと願う願望ではないだろうか?
その願望の行き着く先にはまた「別の闇」が待っている。

本書は社会の矛盾について考えたい人にはうってつけの「問題集」(ケーススタディ)であると思う。
そして本書が考える契機になり得た人は、本当に社会の事を考えたいと思っていた人なんだと僕は思う。
そこから先の答えはを導くのは自分自身だという事を彼は説いている。
僕はそう思った。






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