3-9 水菓子で腹壊す人はギリシア人

水菓子を大量に食うと毎回お腹痛くなる…
葡萄安かったから買ったものの、大量に食ってしまったことを後悔している… これは弁証法を伴っていない(?)ので、ただの後悔である… そもそも、食で反省ができる人間だったらラーメン屋で毎度毎度粉落としは食わない… もし私が精神を持ち弁証法的に生きているのであれば久留米風濃塩豚骨ラーメンの粉落としに不安を感じるのであろう… だが実際の私は精神性を欠き弁証法的でないので、粉落としで毎回腹を下している… もしかしたら、私はギリシア人なのかもしれない…
ところで、自分は水菓子という言葉をよく使うんですが、僕は知る限りで僕以外水菓子と言う言葉を使う人を見たことがない… 親でさえ「水菓子?」って感じで僕の発言に首を傾げられたことがあるので、親からの影響ですらない… 私は誰に影響されて水菓子と言う言葉を使うようになったのか… ギリシア人だから想起の中で葡萄などが水菓子であると思い出したのかもしれない… ほら、水菓子と呼ばれていたのも過去のことだし…

久しぶりのツインレイとの不安の概念だった… 多分、2ヶ月ぶりくらい…? 如何せんすごく久しぶりだった… やっぱ久しぶりに話すとツインレイおもしれぇってなる…

キルケゴールの著作は一貫して一切キリスト教の価値を承認しない人間を想定していないし、キリスト教の価値を一切承認しない人には理解ができない書物だ… そもそも、キリスト教を信じていると自称する人間にキリスト教の論理で真なるキリスト教(とキルケゴールが思い込んでいるもの)について説くのがキルケゴールだ… 常識的に考えて、私のような無神論者(?)に読まれることは想定されていないのであろう… 悲しい…

ツインレイに話した関係で1週間前のこと思い出していた…
一週間前の人、やっぱなんか酔ってたとはいえ明らかにおかしかったし、少し信頼を買うことをしたら私を全面的に信頼するような振舞いをしたし、多分愛着障害かなんかだったんだろうなって思う… 絶対に初対面で聞いちゃまずい話何個も聞いたわけだし…
にしても、1月頃、ツインレイの「君顔いいし誰か君のこと狙うっしょ」みたいな内容の発言を言われたんです… それに対して、僕は「お世辞なのか、本心ならツインレイは僕を美化しすぎてる」って思ってたんです… けど、今回の件のせいで、ツインレイの方が正しくて「君は預言者か?」ってなってる…  ツインレイ=キリスト…!

リアリズムとシーシャを行く約束した…
まだまだ全然会うの先なんだけどすごく楽しみにしている… リアリズムは純粋に安心するというか、害のない人間で本当に気に入ってる… たまに会う分には最高の友人だと思っている…
余談ですが、基本的には僕は人と遊ぶのが好きじゃなくて僕から遊びに誘うことは無いんです…けど、リアリズムだけは毎回帰省する度に僕からLINE入れて会っている… たまにリアリズムからの時もあるけども…

私がどれだけ右派から逃れようとしても私は右派でしかない… これでも左派になろうとしてると言えば笑われるだろう… 親の影響ってのは絶大だなって思う… 

ツインレイからガチ恋勢の話を聞いてた…
それを聞いて通話終わったあとずっとガチ恋勢について考えていた。果たして、ガチ恋勢や我々は如何にして愛してるんだ?と考え込んでいた。なんでこんな愛に執着するかは昼間ずっとキルケゴールの「愛について」を読んでいたからであろう(内容が全然異なるので本当に関係あるのだろうか)。
まず初めに、我々が○○を愛していると言う時、それ自体を愛しているのか、それ自体の要素を愛しているのかどちらであろうと思った。例えば、僕が妹を愛すると言う時に、妹その人自身を愛しているのか、それとも血縁を愛しているのか?という問いである。
この例に関して言えば、愛しているのは妹自身であるように感じる。しかしながら、妹から血縁が無くなれば僕は妹を愛せないであろう。したがって、妹自身を愛しているように感ぜられるが、実際は妹との血縁を愛しているというのが正しい答えである。
また、ガチ恋勢の場合はどうであろうかと考えた。ここで言うガチ恋勢は配信アプリやYouTubeにおける配信者へ恋する人を想定している。この場合もまた、アバターや性格、声、喋り方などに実際は恋しつつも、その人自身を愛しているように感ぜられるのであろう。
要するに、○○を愛するという時に、○○それ自身を愛しているように見なせるが実際はその要素(性格、顔、趣味、価値観、フェティシズムなど)を愛しているだけなのでは?と感じた… 私自身は、これで概ねのことは納得出来る… 
一方で、一般的なべき論として、○○を愛する際には、それの要素よりもそれ自身を愛するべきであるという規範は根強いであろう。言うまでもなく、綺麗事の範疇では、「妹を愛するのは血縁があるからに過ぎない。」という主張は多くの人間にとって受け入れ難い(少なくとも僕はそう感じる)。したがって、倫理的な範疇では、その要素を愛するよりもそれ自体を愛することが求められるのであろう…
結局何が言いたいんだこれはってなる… 何も言いたい訳では無い… ただ自身の考えをまとめたかったんだ… 適当に総括するのであれば、べき論としては愛する時はそれ自体を愛するべきだけど、実際には愛せるのは要素でそれ自体を愛するって無理じゃね?ってだけの話になりそうだ… 
ガチ恋勢の話だけで何を長々と話しているんだか…

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