自己紹介

夏目漱石が小説の草枕の中で「智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だとかくに、人の世は住みにくい」と書いた時代から早100年。

いつの世も決して、生きることには苦難は伴うものかもしれません。

ただ、その中でも希望を持って、生きやすい世の中になることを人が求めなくなれば、あっという間に本当に生きにくいものとなるでしょう。

そこで、私のこれまでの人生で学んだことをベースにして、少しでも生きやすい、楽しい人生に誰もがなれるという理想を目指して活動することを決めました。

その前に私自身の人生を振り返ってみます。

九州の片田舎で育った私は地元で有名な会社の工場勤務の父と専業主婦の母のもとで育ちました。父は古くからある地元の名士の家系で生まれ、地元では進学校として有名な高校を卒業した背景からかプライドだけは高く厳格な人物でした。父は親(私から見ると祖父)から大学に学費の関係で行かせてもらえず(おそらく当時は今のような奨学金制度もなかったと思われます)、とても悔しい思いをしたそうで、子供にはその思いをさせたくなかったようです。

私が幼少の頃は母との折り合いが悪く、よく口喧嘩をしていたのを覚えています。

両親が口喧嘩をしているのを傍目に私は本を読んだり、買ってもらったパソコン(教育方針なのかファミコンは買ってもらえず、代わりになぜかプリンタまでセットにして)でゲームや、プログラミングをして遊んでいました。

小学生の頃は全く勉強を家でせず、近所の友だち(友人とは呼ばなかった、なぜだろう?)の家に遊びに行っては、宿題を解いてあげてはお金をもらったり、サッカーをしたりと活発だった子でした。

元々、勉強はせずとも宿題やテストくらいはそつなく?こなしていたためか親は勉強しろなどと口喧しく言われませんでしたが、中学に入る頃にはテストの結果が親にもオープンにされ、かつ成績も上位だったため(相変わらず勉強はせず、本やパソコンでプログラミンをしてばかりいました)、変に親が期待してしまい、医者か弁護士、裁判官はどうか?などと子供が聞いても社会的に地位が高そうな仕事を進めてくるようになりました。今思うと田舎にありがちなのかも知れませんが、視野が狭い考え方を押し付けてきていたように思います。

高校は父と同じ地元で有名な進学校に入り、入学時点での成績は6位で親は喜んでいたことを思い出します。

しかし相変わらず勉強は定期テストの直前にしかしていなかったこともあり、次第に成績が悪くなり、高校2年になる頃には正直、何番くらいだったのかも覚えていません。ただ、2年の夏に転機がありまして、当時、付き合っていた下級生の女の子からフラれてしまい、ショックから立ち直った後、そのエネルギーを勉強に向け始めてからというもの、一気に成績が上がり、学年1位になっていました。当時の担任の教師から自信がついたのでは?と勇気づけられたのを覚えています。

いよいよ大学の進学に向けて、どこを志望校に据えるかを見つつ、受験勉強に本腰を入れなければならないときに、ある事件が起きました。それは、私にとっては衝撃的なもので、父が帰宅するなり何かのことで母と口喧嘩をしたときに、母に土下座をして謝ったことです。まさかあの厳格な父がそのような醜態を晒すイメージがなかった私にはその光景は異常なものとして映り、ショックでした。そのとき、父は酔っていた気がします、おそらく職場の同僚との飲み会の帰りあったのでしょう。

翌日、学校に行ったものの、3年生に上がる際の集会のときに、昨晩の光景がフラッシュバックとして蘇り、そのまま気分が悪くなり、集会があった体育館から退出して、どこかを彷徨っていました(記憶がないのです、保健室に行けばよかったのかもしれませんが)。

それからというものの、勉強に身が入らなくなり、授業中にテストがあっても今、何をクラスの子たちがしているのかもわからず、前の席の友達に今何をしているのか聞いたりするようになりました。

3年の間はそのような感じで、親も心配し、特に母親に至っては、祖母が通っている鍼治療を勧めたり、挙句にはどこぞのお寺に行って、お祓いをしてもらったりと、今思うと悲しい思いをさせていたと感じます。

現役時に受けた志望校はセンター試験で合格できそうな大学を受けていたものの全滅(正確にいうと後期で受けられるところもありましたが、受験票を提出して、気に乗らないから受けませんでした)。推薦状も書いてもらった医学部も受験せずという、人生初の屈辱を味わいました。

浪人を覚悟したものの、性格的に自宅で勉強することはないだろうと、市内の予備校で受験勉強をすべく、寮に入りました。

寮ではすぐに友達ができては、その友達と初めての市内に遊びに行っては、夜に勉強をしながら机で寝る、という親泣かせの、授業料と寮費が無駄なことをしてましたね。そのため寮費が無駄と思い、自宅に戻って勉強することにしました。

浪人生の頃に勉強を悔いが残らずした記憶はないものの、有名私大に合格することができ、志望校の国立大に合格する前に、滑り止めの私大には学費30万円も親が出してくれたことは今でも感謝しています。国立大の受験前(だいたい2月頃)に、私大の学費を支払う制度はその後、社会的に問題となり、入学しない場合、学費の納入は求められなかったはずです。

志望校の旧帝大医学部にも合格することができ、合格の手紙が届いて開けたとき、両親がソファでとても嬉しそうだったことは鮮明に覚えています。あんなに嬉しそうな親を見たのは生まれて初めての出来事でした。

大学に入学した後のことは次回に書きたいと思います。

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