なにが本物で なにが作品か すべてが本物で すべてが作品に

テキスト:KIKI(モデル)

山を歩いていると、だんだんと頭のなかが軽くなっていく。
街に暮らすわたしにとって、山での時間は非日常だ。
だから山に来ることは、日常から離れることにもなる。
歩き始め、いろいろな事を考える。日常の些細な出来事を思い返す。
あんなことがあった、こんなことがあった。
悔しかったこと、面白かったこと。仕事のこと、家族のこと、体調のこと。一緒に歩く仲間がいるときは、もちろんお喋りもする。
山のなかの目の前の景色、この先に待ち構える険しい登り坂、今晩泊まる山小屋のご主人、質素で美味しい夕食。食事の話になるとからだが釣られるのか、なんだかお腹減ってきたね、と足をとめて小休憩する。
休憩のあとは、なぜだかいつも、皆、無口になる。同時に、わたしの頭のなかもさっきまでたくさんの考え事が渦巻いていたのに、皆、ぴたりと動きをとめる。そうして、頭のなかはからっぽになったみたいに軽くなる。

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【山を歩くのに杖があると、均衡がとれて疲れにくくなる。今も昔も変わらず使われてきた道具が、作品として並んでいることにうれしくなる。気に入った長さ、曲がり具合の杖を、わたしも娘も一本選んで、旅のおともにする】

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【水の神様と水の映像が向かいあう。どちらも厳かで、どちらも神様のよう。空から降りおちた雨が、山の土に吸い込まれて、湧き出た水が沢になり、田畑を潤し、海に養分を運ぶ。当たり前で忘れがちな天の恵に気づく】

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【吉野は人の暮らしと山とが近い。石畳の道も森も、いにしえから大切されていることがうかがえる。山に道があることも、森に木漏れ日が射すことも、当たり前のことでなく、人が手入れしているから存在し、今、わたしはここにいることができる】

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【鹿の彫刻がある!と近くづくと、顔が木の幹に埋もれていてぎょっとする。近年では各地の森で食害が起きていることを思い出す。森だけでなく、畑や庭の草木も荒らしている。でも鹿が悪いのではない】

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【森で気配を感じることがよくある。それは微生物かもしれない、小動物かもしれない、苔とかキノコかもしれない。あるいは森の精霊かもしれない。子どもは小さい小さい虫でも木の実でもすぐに見つけるから、精霊もふつうに見えているのかもしれない】

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【展望台に立つと、山の斜面を登ってくるがとても冷たく感じられた。「キュッ キュッ」と文字が目の前に現れると、そんな風の音がする気がしてくる。あるいは、風に冷やされた地面がそう鳴いているのだろうか。作品を聞いて、さらに耳を澄ませる】

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【心地よい斜面を見つけて、山歩きの途中で寝転ぶ。見えない電波に乗せて、声を送り、声が届く。地続きの大地を潜って、思いを送り、思いが届く。足が歩いていなくても、思考は歩くことができるのかもしれない】

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【吉野山の夕暮れ】

歩くことで、頭が軽くなってくると、感覚が敏感にはたらくようになる。
木の葉の色、風の音、沢の流れ、鳥のさえずり、土のにおい。
ぼうっとした視界のなかを歩いているつもりでも、どこか特徴的であったり違和感があったりすると、輪郭が浮かび上がるように目に入ってくる。
マインドトレイルのアートには、そんな日常とは少し異なる感覚で触れることになる。みずから作品を探そうとしなくても、道に導かれて歩くことで、作品に出合う。出合いがしぜんであるから、意図を読み取ろうとしなくても、まるで向こうから語りかけてくるかのようだ。多くの説明はいらない。ままに、感じるだけでよいことの気楽さ。
仲間がいると、自分が感じたもの、相手が気づいたものを共有することができる。ひとりのときにはなかった発見がある。それがまた、街でなにかを共有するより、ずっとその人らしさがあり、その人のことも見えてくる。
わたしは、一緒に歩いた娘を通して、いつもよりたくさんの森を見て、水を聞いて、風を香った。そして、作品に触れ、こころに残した。

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【天川へ。わたしは初めて訪れた土地。信仰に詳しい友人は、こころを込めて「天川さん」と呼んでいた】

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【吉野の森と天川の森は、似ているようで異なる。沢の流れだけでなく、空気の中にも、足下の落ち葉のなかにも、石を覆う苔にも、水の気配を感じる。天川には水の神様がいるといわれる由縁か】

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【森にしつらえられた舞台。自然との境界があるようでなく、ないようである。娘の動きは舞台の上でより活発になったから、やはりあるのだろう。正午を越えた日の光は色づきながら傾きはじめ、設えられた照明のように舞台を照らす】

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【舞台脇の苔生した切り株。なぜか目に留まる。違和感を感じながらも通り過ぎようとすると、作品だと教えてもらう。元からあった切り株ではなくて、運んできたものだという。違和感に敏感になりながら歩きはじめると、あちこちに自然がつくった作品をみつけた】

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【役行者の修行した洞穴。洞のなかは真っ暗闇で空気も一段と冷たく、時間が止まっているように感じる。山を歩いていると、こういった洞穴でなくても、時間の流れの違和感を感じるときが度々ある。歩くことで、空間だけでなく、時間も移動しているのかもしれない】

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【なにが本物で、なにが作品かわからなくなる。すべてが本物で、すべてが作品なのかもしれない】

吉野と天川をそれぞれ1日ずつ歩いた。
歩き終えて日常に戻り、しばらく時間が経った今も余韻を楽しんでいる。
トレイルには、作家が意図してつくったものもあれば、自然が意図せずつくったものもあった。そのどちらも、こころに留まっているということは、どちらも作品なのではないかと思う。

からっぽになった頭に、奈良での時間がたくさん詰め込まれたのだけれど、その頭の空間はどうやらまだ少し空間が残っているようで、日常の生活を送っていても、普段と違った目線で物事に触れて、とっておきたい大切なものとして頭の中に留め置かれている。でも、これまで何度も山に行ってきた経験上わかるのは、その空間はやはり無限ではないこと。
いつか気づかないうちに、わたしの頭はいろいろなことで埋め尽くされて、息苦しくなってくる。

もちろん、また山へ、自然のなかへ行けば良い。
けれど改めて気づいたのは、歩くということは身体的なものに限らず、精神的な行為でもあることだ。山へ行けるのであれば、行くのが良い。
でも行けないのなら、思考だけを飛ばして、自然のなかを歩かせることもできるのではないだろうか。
ほら!また、わたしの頭のなかに隙間ができた。
マインドトレイルとは、そういうことなのかもしれない。


- KIKI プロフィール -

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東京都出身。モデル。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒。
雑誌をはじめ広告、テレビ出演、映画などで活躍。
エッセイなどの執筆も手掛け、旅や登山とテーマにしたフォトエッセイ『美しい山を旅して』(平凡社)など多数の著書がある。
ドイツのカメラブランド、ライカの会報誌『ライカスタイルマガジン』にて撮りおろしの写真とエッセイを担当し、自身の写真展で作品を発表するなどの活動もしている。
現在、文芸誌『小説幻冬』(幻冬舎)にて書評を連載中。

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