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映画”Grace of Monaco”の舞踏会カジノに入り込んだ思い出

ニコール・キッドマンの美しさと南仏の楽園感で、非日常世界に逃避できた気分。

そして、モナコでかの有名なカジノ・ド・モンテカルロにノコノコと入り込んだことを思い出す。

モナコのキラキラ感を楽しむ映画

視覚的にすごく癒された一方で、ストーリーとしては(大変余計なお世話ながら)心配になってしまった。

グレースケリーの努力・斬新なアイデア・行動力、そしてキャリアと引き換えに一挙解決!というのが、逆に夫のモナコ公国大公が交渉力も無い上に怒りっぽいというキャラを際立たせているような。

大公の無能扱いがちょっと可哀想・・。

実際モナコ公室からも批判があったようで、映画製作側も「完全なるフィクション」としているそう。

私には元の人物のイメージがないからこそ難しいけれど、ご本人とは切り離しフィクションと割り切って世界観の美しさを楽しむのがいいのだろうか?

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その場に存在できるだけでありがたいカジノ

映画で舞踏会の会場とされていた、カジノ・ド・モンテカルロ。

ニースからモナコに日帰りで寄ったところで、「モナコってカジノ有名だよね?」くらいの気持ちで建物内に入ると、宮殿のような空間に巨大な鳥かごブランコ・・?!

セレブたちが見向きもしていない中、記念にブランコにも乗ってみる。

カジノの会場はというと、静かで広々!(撮影不可なのが残念)

アジア圏の賑やかなカジノしか行ったことがなかった私には衝撃。

面積が広いというよりルーレットの台?が少なくて、ゆったり優雅な空間。建物の豪華な内装、絵画などこの場に居させて頂きありがとうございます。という気分である。

どんな人生を歩んでこられたのか聞いてみたい、ドレスの美女を隣に座らせた高貴な人しか生やさない感じの髭を蓄えたおじさまがワインを飲みながら楽しんでいるルーレットに、コソコソ参戦。

追い払われたらどうしようと思いきや、孫を見るように見守ってくれた。(内心どう思っていたか分からないが)これほど裕福だと全ての者への慈悲も持つ余裕が生まれるのだろうか。

ルーレットはあっけなく終わってしまったが、何度も言う。その場に存在できただけで満足。

同じような雰囲気の宮殿や美術館と同じかと思いきや、その空間に座って遊びながら時間を過ごす、というのは歩きながら見学するのとは似たようで違う貴重な体験だった。

カジノを出るとちょうどタイミングよく、フェラーリがエントランスに乗り付けてきた!モナコのイメージが次々と目の前で現実となっていく。

夜の港にセレブが所有していると言われるヨットが輝きを放っているのも見届けた。

さて、電車でニースに戻ろうと思ったら、全て電車がキャンセルされていた・・!

駅で同じく路頭に迷っていたフランス人が、バスがあるから走れ!と教えてもらい、夜のモナコを全力疾走するはめに。数時間前に世界のセレブが集まるカジノで遊んでいたのにこの凋落である。(セレブには一度もなっていない。)

そんなハプニングも含め、とても好きになってしまった南仏の思い出。

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映画鑑賞は勉強になるなあ

映画を見て、モナコとフランスの関係性、そしてモナコの徴税システムが謎過ぎて調べてしまった。

たどり着いたのは財務省のコラム!まさか財務省の資料を読むことになるとは、なんと有意義。

・モナコ「公国」 公国とは貴族が君主の国家
・法人税はフランスと同じ条件で33% ←ここを揉めて受け入れたのか?
・所得税は存在しない(!) ←ここを死守したのか?
・実はカジノ運営企業の業績は良くなく歳入としては小さい

たしかにモナコといえばタックスヘイブンなイメージがあったが、金融所得含む所得税が存在しないとは。(とはいえ、生きているだけでお金がかかりそうなモナコ。相当なる貴族でないと節税メリットは・・?)そしてあのカジノは実は儲かっていなかったのか。たしかにカジノ自体に必死になっている人は皆無だった。笑

最後に。

自分の人生も考えさせられた、グレースケリーがキャリアに悩むシーン。

「本当の自分を隠して残りの人生を生きるなんて・・」

というと、相談を聞いていた神父から言われる。

「本当の自分って誰?」

日本で大学生をしていた時に学んだ社会学を思い出した。

人間はよく「素の自分・本当の自分」がいて、他者に合わせて仮面をかぶり、その場に合わせて演じている。という感覚を持つ。

けれど、「本当の自分」なんて無くて、自己とは社会的活動のなかで生まれるものである。強いて言うなら、複数の場所でその場に合わせた振る舞いをしていても共通している部分があるはずで、それが自分(かもしれない)。という考え方。

グレースケリーの場合、「女優・グレースケリー」こそが本当の自分で、公妃として生きるのは本当の自分を押し殺している!という感覚だったのかもしれない。

神父さんに諭され、「演じること=自分」と考えて、ハリウッド映画の役ではなく、公妃の役を演じる決意をした、ということなのかな、と。

年齢、そしてライフステージが変わることで、どこの誰でも考えることを思い出させてもらった。


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