レビュー:ジェームズ・ブラッドワース、『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した――潜入・最低賃金労働の現場』(濱野大道訳、光文社、2019年)

【以下は、アマゾンのカスタマーレビューに書いたものの転載です。】

2018年、アマゾンの創業者ジェフ・ベゾスは、資産額が1000億ドルを突破し、ビル・ゲイツを抜いて世界一の金持ちになった。アマゾンはいま世界で最も成功している企業だ。私たちの多くは日常的にアマゾンを頼っている。本を紹介するときには誰もがアマゾンの商品ページへのリンクを貼り、アマゾンのギフト券がしばしば謝金の代わりに使われる。

確かにアマゾンは便利だ。パソコンやスマートフォンで注文すれば、ありとあらゆる商品が数日後には自宅まで届く。そして多くの商品が実店舗よりも安く売られており、しばしば送料もかからない。私たちは今ではアマゾンの提供する高いレベルのサービスに慣れきっており、それより低いレベルのサービスには不満を抱くようになっている。だがなぜアマゾンにはそんなことが可能なのか。この疑問は、部分的にはスケールメリットや技術力で説明ができる。しかし、本当の理由はアマゾンの倉庫の中を覗いてみるまで分からない。

本書は、イギリスの各地を渡りあるいて低賃金の労働現場を実際に体験したジェームズ・ブラッドワースによって書かれたルポタージュである。ここではひどく過酷な労働の実態が報告されている。それに加えて、その土地土地の、あるいはイギリスという国の、かつての産業とコミュニティがどのようにして廃れて現在に至っているかが描写される。例えば第一章では、かつて炭鉱とともに栄え、炭鉱ととともに衰退したルージリーという町に建てられたアマゾンの倉庫で働く「ピッカー」(棚から商品を取り出す作業に従事する労働者)たちの仕事が取り上げられる。

ピッカーは時給7ポンドで、一日に10時間以上、巨大な倉庫の中を歩き回り、時に駆け回る(倉庫の中で走ることはルールでは禁止されているが、ノルマをこなすためにはしばしば走らざるを得ない)。著者がアマゾンで働いている間の一日の平均歩行距離は16㎞、最長で23㎞、最短で11㎞だったという。休憩は15分が二回、30分が一回(なお30分休憩の間は無給)。30分の休憩は昼食のための時間だが、サッカー場10面ほどの広さの倉庫を横切って出口まで歩き、そこから出る時に商品を持ち出していないかどうかを調べるボディチェックの列に並ぶため、食事に使える時間はその半分くらいしかない時もある。なおボディチェックはトイレに行く際にも受ける必要があり、その間は時給は支払われない。倉庫への携帯電話の持ち込みは厳禁で、大事な電話を受ける予定があると言っても聞き入れられない。

ピッカーは監督者(10人のピッカーにつき一人の監督者がついている)からの指示を受けるためのデバイスを常に携行しており、それによって彼らは厳しく見張られている。商品をピックアップするペースによってランク付けされ、ペースが遅いと警告を受ける。仕事中に水を飲むこともトイレに行くこともままならない。なぜならだだっ広い倉庫の中に給水所やトイレがわずかしかなく、そこに行くだけでも「アイドルタイム」と見なされる可能性があるからである。一日の仕事が終わった時には彼らの足は1.5倍にむくんでいた。

アマゾンの倉庫には様々なルールがあり、ルールを破ると懲罰ポイントがつけられる。懲罰ポイントはかなり社員の気まぐれに左右されたという。欠勤や遅刻なども理由の如何に関わらずポイントが加算される。懲罰ポイントが6ポイントになると解雇である。

アマゾンの倉庫ではこのような過酷な現実を糊塗するための様々な努力がなされている。アマゾンでは倉庫を「フルフィルメントセンター」または「FC」と呼ぶことになっており、それを「倉庫」と呼ぶことが小さな違反になる。倉庫の至るところに高揚感を与えようとするためのスローガンと従業員の笑顔の写真が飾られており、満面の笑みを浮かべたある従業員の等身大のパネルには「仕事に来ることが大好きで、ここにいないと寂しくなるくらいです!」という言葉が添えられていた。アマゾンの従業員たちはすべて「アソシエイト」(仲間、同僚)と呼ばれており、アマゾンはピッカーたちに「ジェフ・ベゾスもあなたもアソシエイトです」と告げている。まるで独裁者が「同志」と呼ばれ、国家のために働くことが至上の喜びとされる共産主義国家のようであるが、これが現代の資本主義世界で最も成功している企業の姿である(そういえば数年目に上海に行ったとき、建設現場の囲いに人々の笑顔の写真と「国家の発展が私たちの夢」というようなスローガンが掲げてあって、全体主義国家なのだなあ、と思った)。

もちろん実際にはピッカーたちは「仲間」どころか、人間扱いもされていない。彼らは厳しいノルマとルールに縛られ、懲罰ポイントによって脅され、日常的に監督者や警備員から罵詈雑言を浴びせられる。ある時、高齢のピッカーが監督者にひどく怒鳴りつけられる様子を著者は描写している。その老人は、迎えに来た妻に連れられて倉庫を去り、二度と戻らなかった。

本書を読んでいると、低賃金の労働に従事することが、どれほど人間としての尊厳を傷つけうるかに驚かされる。社会はまるで、人の稼ぐお金がその人自身の価値と等しいかのように人間を扱う。本書の第四章ではUberのドライバーとして働いた経験が報告されているが、ドライバーたちの間では、低い料金が客の無礼な態度を助長するという傾向についてしばしば話題になったという。著者が会った一人のドライバーは「残念なことではあるけど、低賃金の仕事をしていると、まわりから見下される。誰もこちらに敬意を払おうとはしない」と言った(p. 297)。

Uberのドライバーは、形式上は独立した自営業者で、Uberと対等の契約関係にあるということになっている。ドライバーは自分の車と自分の空いた時間を利用してサービスを提供し、Uberからその対価を受け取る。このようなビジネス形態は「ギグ・エコノミー」と呼ばれている。「ギグ」とは本来、ミュージシャンが単発の契約で行うライブを指す言葉である。そのため、ギグ・エコノミーという言葉は、特定の雇用関係を結ばず、自分の技術を頼りに颯爽と自由に世界を渡り歩くフリーランス、というイメージを喚起する。しかし実態はそんな格好の良いものではない。著者は「実際には、仕事の多くの側面が厳しく``管理''されていた」と述べる。「いったん道路に出ると、受けた仕事の数、受けた仕事の種類、キャンセルの有無が、自らをドライバーの``パートナー''だと呼ぶことを好む組織によって厳重に監視された」(p. 279)。

ドライバーに与えられた限定的なフレキシブルさはアプリのオンとオフを切り替えるタイミングだけだ、と著者はいう。アプリをオンにしている間、ドライバーは、乗車リクエストが来たら、どんな客をどこまで乗せるのかを事前に知ることなしに、約15秒以内にそれに応えなければならない。リクエストの引き受け率が8割を下回るとアプリが一時的に、あるいは恒久的に停止させられる。

Uberとしては、乗客にすぐにサービスを提供できるように、できるだけたくさんのドライバーを路上に待機させておく必要がある。一方でドライバーには、待機している時間の給料は発生しない。車に要する費用、事故の時の補償もUberは支払わない。なぜならドライバーはUberの社員ではないからだ。稼ぎを上げるためには、できるだけ長時間、アプリをオンにして待機しておかなければいけないが、どれだけ稼げるかは完全に状況次第である。

要するにギグ・エコノミーとは、名ばかりの自由、名ばかりの独立と引き換えに、雇用する側にとってのみ都合のよいフレキシブルさをもって、人を低賃金の重労働に従事させる、新しい搾取の形態である。イギリスでは現在、このような不安定な雇用の形態に従事している労働者が増えている。ゼロ時間契約(きまった勤務時間が全くない、そのため給与が全く得られないこともありうるような雇用の形態)で働く労働者は、本書が執筆された2016年の時点で90万人以上おり、前年度に比べて21パーセントの増加しているという。第2章で取り上げられている介護士派遣会社ケアウォッチUKも、ゼロ時間契約で介護士を雇っている。ケアウォッチの契約書には、「この雇用に適用される団体協約はない」、「労働組合の活動は認めない」などの文言が明記される。

サービスを受ける側としては、従来よりも安く便利にサービスを受けられるメリットはある。しかしそのメリットは確実に誰かが不安定で低賃金な労働に従事していることによって支えられている。その一方で、プラットフォームを提供する側は莫大な利益を上げている。現在このようなビジネスが様々なジャンルに広がっている。テクノロジーの伝道師、ケヴィン・ケリーはこういったテクノロジーのトレンドは不可避であり、また私たちの生活をより便利にしてくれるものとして歓迎している。ケリーの『<インターネット>の次に来るもの』の各章の最後には将来の生活の予測が描写されている。「ACCESSING」と題された章では、衣服、乗り物、美術品、生活用品、住宅などなど、あらゆるものがサービスとして提供され、消費者は何も所有せず、その時々に必要なサービスに即時にアクセスできるライフスタイルが描かれる。しかしそのようなシステムを支えるために、どれだけ多くの人々が、生きていくのもやっとの賃金で、アルゴリズムとスマートフォンによって厳重に管理されながら、過酷な労働に従事しなければならないかは描かれていない。

しかしこのような過酷な職場で働く人々はなぜそのような仕事についているのか。他の仕事を探せばいいのではないか。答えは単純で、他の選択肢がない、あったとしても大して変わりばえのない選択肢しかないからである。この社会では建前上、個人の自由が広範囲で認められている。そのためある人が置かれた境遇は、その人の自発的な選択の結果と見なされる。貧しい人々が貧しいのは、彼らが怠惰であり愚かであり根気も計画性もないから、つまり「貧困は道徳的欠陥」(p. 236)であり、「貧しい人々がそのような状態に陥ったのは、彼ら自身の低いモラルや人生における無責任な選択のせい」(p. 11)ということだ。

しかしこれは大きな間違いである。この社会においては、すべての人間は否応なしに、どれだけ金を稼いだかを競う、生まれてから死ぬまで続くレースに参加させられる。このレースは生まれた時点で既に上位と下位には大きな差がついている。この経済的レースの必然的な結果として、生きるのもやっとという状態に追いやられる人間が出てくる。彼らは自分の状況を改善するための力を削られ、その状態から抜け出せなくなる。スタート地点で大きなハンディキャップがついており、しかも給水地点で上位通過者にしか水が与えられないようなマラソン競技を考えてみればよい。さらにこのレースのルールを決めるのが、通常レースで上位につけている人々であるということも下位者たちの状況を困難にする。また上位者の中には下位者の困窮に付け込んで「水を分けてあげるよ、次の給水所で倍にして返してね」などと言ってくる者もいる。水が足りている人間ならばこのような不利な取引には耳を貸さないだろうが、いますぐ水を飲まなければ倒れてしまいそうな人間にはこの取引を断るという選択肢はない。意志も勤勉さもここではほとんど意味をなさない。

もちろんこのようなレースでも中位あるいは下位からスタートして上位に躍り出る走者がいないわけではない。あるいは怠惰や愚行によって上位から下位に転落する人もいる。しかしそういった人々がいるということは、下位者の境遇がきっと彼らの怠惰や愚行のせいだということを意味するわけではない。しかし社会は貧困者を貧困ゆえに非難に値するとみなしがちである。Uberの共同設立者でかつてのCEOだったトラビス・カラニックは、賃金について不満を訴えたドライバーと議論になり、ドライバーに「自分で自分のケツを拭けない人間っていうのがいる。そういうやつらは、人生のあらゆることをほかの人のせいにする」と言い放ったという(p. 284)。

社会学者のジークムント・バウマンは著書『リキッド・モダニティ』の中で、個人のみならず社会の様々なシステムが流動化した現代、個人には建前上大きな自由が与えられ、そして個人の行動を制約するシステムの働きが見えにくくなることによって、ある人がこの世界のどこにいて、何をしているか、あるいはその人が誰であるかは、その人個人の能力と選択の問題とされるようになったことを指摘する。そのために現代では人々の抱える問題が公共のものにならず、あくまでも個人の選択の問題として処理されるようになった。本書は、およそ20年前のバウマンの言説が、今日、より一層の重要性をもっていることをまざまざと例証している。

本書のアマゾン(!)のページのレビューの一つには「嫌なら辞めればいいのに」と書かれてあった。このレビューにこそ、本書が浮き彫りにしている最大の問題が端的に表れている。このレビュワーは本書を読んだ後でなお、「すべては自分の選択の問題」という物の見方から免れられていない。「努力すれば報われる」、「報われないのは自分のせい」という固定観念はこれほどに強固に私たちに植え付けられている。心理学ではこのような固定観念を「公正世界信念」と呼ぶ。この世界は公正なものであり、ひどい目にあっている人間は相応の理由があってそうなっているはずだ、という認知バイアスである。このバイアスには善行や努力を促し、悪行や怠惰を抑制するというポジティブな働きがあるのだろう。しかし現代の社会において、このバイアスは現実の不公正さを隠蔽し、経済格差を助長し、苦しい境遇に置かれている人をより一層苦しめる原因になっている。

この世界がアンフェアであるというのは受け入れるのが難しい現実かもしれない。努力が報われるとは限らないし、フリーライダーが罰せられるとも限らない。自分が成功したのは自分の才能や努力のおかげではないかもしれないし、自分がつらい目にあっているのに合理的な理由なんかないのかもしれない。いわゆる「ネオリベ」の人々は自らをリアリストと自認しているが、その実、「世界はフェアにできている」という幻想、とりわけ「自分は才能があって努力をしたから成功した」という幻想に固執し、自分の成功が運や偶然や社会のアンフェアな構造のおかげであるという事実から懸命に目を背けている自己欺瞞家である。

著者が書いているように、本書においてそれほど新しいことは書かれていないのだろう。ここに書かれているのはありふれた社会の一側面だ。そしてまた過酷な労働と搾取はこれまでずっと先進国と途上国の間で当たり前に存在してきたことだ。アマゾンやUberを利用しなくても、ユニクロの服を着て、マクドナルドのハンバーガーを食べ、iPhoneをいじっている時、私たちは搾取に加担している。世界はアンフェアにできており、自分たちはそのアンフェアな構造の恩恵を受けているという現実を私たちは直視しなければならない。そのうえで、その構造を是正する努力をしなければ社会を、世界をより良い場所にすることはできない。

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