集金先の食卓で


ナスの出汁漬け、大根と菜花の味噌汁、野菜ばかりの天ぷら。
二人の娘はウィンナーの天ぷらが無いと口を尖らせている。上の娘は菜花は苦いと言い、下の娘は出汁漬けのナスの皮を剥いて食べている。
妻は「文句を言う人は食べなくていいです」と言っているが怒っているようには見えない。
 
 太平洋に面した穏やかな気候の漁港町の信用金庫で当時、私は26歳で外回りをしていた。
仕事に悩み、そして何より結婚に悩んでいた。家庭は笑ってしまうほど貧乏で勤め先の金庫内の現金が無くなった時に呼び出されて疑われるほど貧乏は周知の事実だった。
すり身を蒲鉾にする店、「いわし」を何故か「ゆあし」と書いた魚屋。カレーそばと注文しても必ずカレーうどんが出てくる食堂。釣り銭があると不機嫌になるクリーニング屋、豚の皮の鞣し工場の隣には頼んでもいないのに山のように胡椒をかけるラーメン屋。
あとで知ったのだが鞣し工場の匂いを消すためだと行員仲間が言っていた。かなり個性的な漁村だったが私は一生ここで過ごすのも悪くないと感じていた。
私が勤めていた信用金庫は当時、いわゆる自己資本比率割れという経営内容で46人の行員のうち43人は事業譲渡した次の職場へ進むことが決まっていた。一人は系列会社へ、もう一人は地元の役場への就職が決まっていた。
そして何故か私だけが「お前は若くて仕事が出来る」という理事長のよく分からない言い分で縁も縁もない別の地域の金融機関への就職が決まっていた。

50ccのバイクで海沿いの道を走るのは気持ちが良かった。海から南風が吹く日は蒲鉾屋のすり身の匂いも豚の皮の鞣し工場の匂いもしない。
水面がキラキラ光り、はるか遠くに大きな漁船らしきものがみえた。砂浜にはまばらに間隔を空けた釣り人がいるだけの絵に描いたような凪の海だった。
その日もマリーンだかマリンだか人それぞれで呼び名が違う喫茶店でエビピラフとアイスコーヒーのランチを食べるつもりだった。
中に入ると珍しく人で溢れていた。「忘れていた!今日は年金の受取日だった事を!」
年金の受取日は町内のお年寄りがマリンだかマリーンだかの店にあつまり昼食会をしている日だった。一斉に私の方も見た中に得意先の顔もあり「あら、〇〇金庫さん」と私の事を呼んだ。嫌な顔をする人などいなかったのだがさすがに気まずく「また来ます!」と言って店を出た。

コンビニに行く前に通りがけに八百屋の集金を済ませようとバイクを止めた。
「こんにちは〜」と中に入ると昼食を摂っていた。
店の奥にレジがありその脇が居間と台所になっていて皆が入って来た私の顔を一斉に見た。
またやってしまった・・・八百屋に限らず昼時は訪問しないようにしていたのに。
「すみません、また来ます」という私に「全く構わないから」と口をもぐもぐと動かしながら大柄で朗らかと言うには声の大きい奥さんは私を奥に招き入れた。私は決まって月、水、金に日掛と言われる売り上げの一部を集金していた。
お金を預かり台帳に印を押して帰ろうとする私に「あんたご飯食べたのか?」と奥さんは私に声を掛けた。
「今日はマリンがいっぱいで」と正直に私が言うと「あ〜マリーンね」と
奥さんは訂正した。
「昨日の残り物だけど食べてけ」と奥さんに勧められたが食卓には同世代の娘さんもいて明らかに怪訝な顔をしていた。「ほかの集金を済ませてからまた来ます」と慌てて引き返そうとしたのだがガラス引き戸の脇からおばあちゃんが顔をだして「いいがら食ってけ」と引き止められた。
諦めた私は、おばあちゃんと奥さんと私より一つ下の娘さんと4人で食卓を囲んだ。
食卓にはナスの出汁漬け、大根と菜花の味噌汁、ナス、芋、人参、ピーマンとさすがは八百屋さんだと思う天ぷらが並んでいた。
「遠慮すんな、食べれ」というおばあちゃんに「ありがとうございます、どれも美味しいです」と月並みな事を言いマリーンが年金の受取日で満席だった事を話してしまうと、そのあとは会話に詰まり、つけっぱなしの昼のバラエティーを居心地悪く見る他はなかった。当然、同世代の娘は早めに食事を切り上げて席を立っていた。
番組がコマーシャルになった時、不意におかみさんが言った。
「あんた結婚してもいいんだよ」
「???」私は何を言ってるのかわからず間の抜けた顔をしていた。
おかみさんは続けて言った。
「誰にも気兼ねしないで結婚していいだよ、あんたの人生なんだから」
奥さんはいつもの大きな声を抑えて真剣な表情で言った。
穏やかなおばあちゃんも心配そうな顔をしていた。
あまりに唐突で言葉の意味は理解できるのだけれど感情がそれに間に合わなかった。頬を伝う温かい液体だけが次から次へと天つゆの中に落ちて跳ね返った天つゆをみて、自分が泣いているのだという事に気づいた。
先に席を立った娘は台所に立ち皿を洗いながら聞こえないフリをしていた。
嬉しさと恥ずかしさで何とか頷いた事は憶えているがその後の事はあまり覚えていない。
その後、別の職場に移った私は当時の彼女と結婚し二人の娘を授かった。
上の娘が6歳になった時に3.11の津波によって八百屋は倒壊した。震災から3日後に漁村を訪ねたが爆撃を受けたような風景だった。車が二階建ての屋根の上でひっくり返りマリーンは通り過ぎてしまうくらい跡形がなかった。爆撃など見たことは無いがこのような景色なんだと思った。
八百屋さんの家族が無事だと聞いていたし、会ったところで何を言っていいのかも分からずに会わずのまま、あの日から10年が過ぎてしまった。
もし会うことが出来たら結婚の報告とあの時どうして私の心情を知っていたのか聞いてみたい。
私は天ぷらを食べるたびにあの日の食卓とあの家族の優しさを思い出す。ナスの出汁漬け、大根と菜花の味噌汁、一晩たった萎びれた天ぷらにだって言葉では言い表せない、時には心のタガを外すような不思議な力があるのだと思う。
私のこの記憶の事を知らない妻が頬の緩んだ私と二人の娘を幸せそうに台所から見ていた。






#元気をもらったあの食事

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