ロンドン生活205日目

200日過ぎましたね。こんにちは。

最近は日本にいっぺん帰りたいという気持ちと、あと半年で帰るのヤダもう2年くらいいたいという気持ちが両立してよくわからん感じである。

今週は驚くべきことに日本からロンドンに来ていたお知り合いの方に三人も会った。みなさんもちろん別々で来ていたので、偶然が重なって面白かった。ロンドンに来て声をかけてくれるのは本当に嬉しい。

一方、今週はなんやかんやで忙しく、今これを部屋でゆっくりと書いている時間が嬉しい。何をしていたかというと、エッセイのプロポーザルを書いたり、バイトをしたり、慣れないパーティに行ったりした。私は知らない人でも一対一や少人数のグループであれば割にうまく喋れるのであるが、特にパーティなどの初対面多人数は苦手であり、空気を読んで無難に流れに合わすか、空気を消して片隅で黙っているかしかできない。しかもそういうときは終わってからどっと疲れている。まぁそれでも、自分が楽しくないときは誰かが楽しかったりするので、それでいいんだろう。

全然話は変わるが、努力をしている人が好きである。昔から。

土日を返上して部活に励んだり、過呼吸になるほど勉強に打ち込んだり、毎日3時間とかしか寝ずに創作に打ち込む人がいて、そういう人にずっと憧れてきた。

多分早い段階で、おそらく中学生くらいで、自分はそういう人にはなれないのだと悟っていた。毎日8時間寝たいし、休みの日はだらだらしたいし友達とスマブラがしたかった。だからこそ、ちょっと無茶に努力できる人に対して嫉妬のまじる羨望があった。

自分が人生で一番努力したと感じたのは、浪人生の頃だったように思う。毎日和歌山から阪和線で難波の駿台に片道1時間強かけて通って、自習室で8時間勉強した。電車では英単語か古文単語を覚えた。1日10時間勉強したが、それでも12時間勉強する人をみて、自分はダメなやつだと落ち込んだ。

その後大学に入ってからは努力がなんなのかよくわからなくなった。部活動は頑張っていたが、努力だったのかどうかわからない。でも一度、部活の主将になることになり、毎朝大文字山の登山口までの坂道を走って登るということをやったときには、「努力してるかも」と思ったと思う。

書いていて気づいたが、自分が努力という名前で呼ぶのは、何か目標に向かっている行為だ。大学に受かるための勉強や主将としてやっていくための筋トレは努力だが、日々の部活の稽古や、社会人になってからのめんどくさい飲み会などは頑張ってこなしても努力という気はしなかった。努力をするためには目標が必要なのである。努力をするための目標・・

ん?目標のために努力をするのか。努力がしたいから目標を決めるのかわからなくなってきたぞ。

Mr.Children の歌詞に「高ければ高い壁の方が、登ったとき気持ちいいもんな」というのがあって、浪人時代の自分のテーマソングだったのだが、これはその壁の向こうにあるものを手にしたいわけじゃなくて、登ったときの気持ちよさのためにやっていたのではないだろうか。という疑問が今になって頭をもたげはじめた。

努力は麻薬じゃわい。

しかし一方で、登ったあとの景色が想像よりもすごいという場合もある。登りきったあとのビールを楽しみにしていたとしても、結果として、景色に見とれてしまうこともある。泣いてしまうほど感動するかもしれない。それは登り切ったあとにしかわからない。

ちょっと書いていてわからなくなってきたので今日はこの辺で筆をおきます。また考えがまとまったら書くかもしれません。