ロンドン生活225日目

アイフォーンのメモ帳を見返してみると、半年以上前に書いた少しセンチメンタルな文章が出てきたのでここに載せておきます。(ネタ切れをごまかすためではありません。)ライブ喫茶亀というたまにお笑いを見に行った会場がなくなることに際して書いていたやつで、亀自体は別の場所で最近リニューアルオープンしたようです。よかった。

なくなるものとなくならないものの話

先日たまに行っていたお笑いライブの会場がなくなることを知った。どうやらビル自体が取り壊されるらしい。私はそれほどそこに入り浸っていたわけではないので、特に強い思い入れがあったわけではないのだが、それでも大きな喪失感を覚えた。後にその会場を運営してる芸人の方のブログを読んだりしているうちに、「なくなること」の圧倒的な寂しさというか、人間の心に与えるインパクトの大きさを、改めて考えさせられた。

それは、「この世からなくなる」からである。

ものをなくすということはよくある。
私はすぐ傘をなくす。ボールペンや、お弁当箱に水筒、マフラーなどもなくしてきた。人との関係性もなくなったりする。小中高(大学はまだ時間的にそうでもないが)、仲よかった友達でも、今では全然会わない。性格が合わなくなって会わなくなるのか、その逆なのか、よくわからない。喧嘩をして会わなくなった人もいるけど。

あんなに近づいたのに遠くなってゆく
だけどこんなに胸が痛むのは
何の花に喩えられましょう
くるり『ばらの花』

でも、これらは失くなった訳ではない。自分との関係性が途絶えただけであって、この世に存在している。だからあまり悲しくはない。なぜなら、在ることを知っていれば、また見つかることや会えることの可能性を信じられるからだ。もしそうはならなくても、なくなった傘は誰かが使ってくれているかもしれない。昔の友人はきっとどこかで活躍しているだろう。自分との関係性がなくなっても存在は続く。それが大事だ。

大川「俺もう洞口さんと縁切ってるから」
洞口「俺も切ったんだよ」
大川「いや、縁切った人と会っちゃったら、縁切れてねぇじゃねぇか」
洞口「だから繋いだんだよ」

大川「そんな切ったり繋いだりできんのかよ」
前田司郎『ジ・エクストリーム・スキヤキ』

しかし、この世から失くなったものはちがう。切ったり繋いだりできない。失われてしまったものは、ずっと失われたままだ。あの薄汚れたビルの一階にある憩いの会場は、そして亡くなった大学時代の友人は、もう戻ってはこない。それらがこれから生み出していくはずだったもの、未来の新しい関係性は閉ざされ、残ったのは、一緒に過ごした時間の記憶だけである。

では記憶は永遠か。

太田省吾の『更地』では、老夫婦がかつて暮らした家のあった場所を訪れる。そこはもう完全に更地で何もないが、二人はそこで思い出を語り出す。ふと、妻が夫に問いかける。

「二人しか知らない時間は、本当にあったと言えるのかしら」

一緒に過ごしたある日の朝食のこと。ベッドの中で互いに幼少時代の思い出を披露しあったこと。些細な喧嘩。割と大きな喧嘩。何十年間の中のありふれた日常。それらのことは二人しか知り得ない。太田はこうした時間を「黄金の時間」だと言った。

私たちがいなくなったら、誰も覚えている人がいなくなったら、それでも確かにそれは”あった”と言えるのか。

わたしはわたしの大事な記憶を覚えておくためにも、この文章を書いている。

わたしが忘れても、この世からなくなっても、文章はもう少し残りますように。