2024.1.12日記

給料に見合った仕事してない気がするんだが最近。そういう時もあっていいのか?人生は短いのでもっと頑張ったほうがいいんじゃないかと思う、帰路。人生はどこからが行き道で、どこからが帰り道なのだろう。それとももちろん一方通行なのだろうか。

今日は2021年に亡くなった人間国宝、柳家小三治の落語を聴いてた。カリスマ的人気があったのは知ってたが全然聴いたことはなく、正直亡くなった後に知った。今日映像見て、やっぱすごかった。めちゃくちゃ粋。超かっこいい。めっちゃ怖そうやけど。実際めちゃくちゃ芸に厳しい人だったらしく楽屋に小三治師匠が入ってきたらピリッとなったそう。
今日見たのは「粗忽長屋」で、30分くらいの短いネタだったが、笑い話が心から笑えるというのはすごい。笑わしてやろうという小賢しさが一ミリもない。そそっかしい人を演ればそのまま、その人に見える。それは演技というのとはまた違う。これが何が違うのかはちょっとわからない。ここは考えるべきところかもしれない。演技の次元とはちょっと違う。演じてないように演じてるのかな。本当にその人に見えてしまう。見えてるのは小三治なのだが、目の前には熊さん、八っつぁんが見える。というかその人たちの会話として見える。これが“芸”というものか、と、ひとり感動していた。

笑えるということで言うと、漫才とかでも「笑わしてやろう」という意図が見えると少し冷めてしまう。ガチガチにネタとかキャラとか“作ってきたなぁ”と思うと、面白くても爆笑できないというのがある。いかに自然体のように見せるかということなのか。何かのキャラとしてボケる、という場面があって、そこでそのキャラとして自然体で振る舞えるかということ。あ、このキャラだったらこの間で台詞言うだろうな、え、そのキャラはそんなこと言わんくない?あ、今の笑い方不自然だったな、とか。設定のための演技に見えては駄目なのだ。演技が設定を引っ張っていく必要がある。小三治師匠見てそれ思った。粗忽長屋なんて落語好きだったらみんな話の筋知ってるが、小三治がやると次どうなるんだろう、と次この人何言い出すんだろうとワクワクする。マジで、ワクワクする落語だった。