京都の記憶

(ロンドンと関係ない話をします。)

その駅には小さなTSUTAYAがあって、細い階段を上っていくと決まってキューピーちゃんみたいな髪型のおじさん店員が無愛想に仕事をしていた。その駅が集合場所の時は大抵そこで時間をつぶした。

その駅の横を流れる川には三角州があり、夜を徹して花見の場所取りをしたり、酒に酔って乱痴気騒ぎをしたり、橋からリュックを投げ捨てて自分も飛び込もうとする友人を止めたり、何の意味もなく近くのローソンで缶ビールと花火を買って、線香花火が終われば、「あれ、こんなもんか」とがっかりしたりした。

何かが起こることを常に期待して、結局何も起こらない日々を悶々としてやり過ごした。

その駅から当時の下宿まではバスに乗るほどでもないが歩くと結構遠かった。途中に照明が暗すぎるバーがあったり、夜になると異常な数の自転車が止まっているチェーンの居酒屋があったり、うまいハンバーグのある洋食屋があったり、安くて量が多い定食屋と漢字で書けない中華屋、テーブルがやたらでかいカフェや年中開いてるカフェがあったりした。登り坂は自転車で上がるとしんどかった。

社会人になってからその駅にいくと、何かが私を置いて完全に変わってしまった気がした。あるいは変わったのは自分なのかもしれなかった。会いたいような会いたくないような人に会うのも気まずかった。

今ではその駅の周囲もかなり変わったと聞く。日々の記憶のこびりついた一つ一つの場所は、次第に上書きされ、消えてなくなっていく。いつのまにそんなに時が経ったのだろう。その頃のことをこと細かく書き残しておきたいと最近は思うのだが、すでに多くのことを忘れてしまった。

”青春”という言葉はいつしか乾いた響きを持つようになった。私の好きな映画の登場人物はそれを「紀が変わった」のだと言う。

「あの時がデボン紀で、今は現代。」※


とはいえ、いまだにこういう文章を書いている私はデボン紀に片足が残ったままなのかもしれない。ずいぶん遠くまで来たように思ったのだが。どうだろう?

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(デボン紀の写真。)


※前田司郎『ジ、エクストリーム、スキヤキ』より