2023.12.26日記

クリスマス、終わっちまいましたね。the birthdayの『くそったれの世界』の歌詞、「クリスマスはさどことなく血の匂いがするから」ってのをずっと「クリスマスはさどことなく死の匂いがするから」だと思ってた。クリスマスって確かに死を連想するよねわかるー!と思ってたのに、血の匂いなんだ、それはあんまりわからんわ。

まぁそんなことはどうでもいいんだけど。

今日はPARAの「演技の教室」でした。今日発表の方が体調不良でお休みだったので、みんなで演技における「共感」について考える回。戯曲に対して共感から入るっていうのはやりがちだが本当にそれでいいのだろうか、登場人物に共感するとはどういうことなのだろうか。自分の経験に引き付けて、登場人物の行為や感情に「共感」して演技することの危険は、「わかったつもりになってしまうこと」にある。子供の頃とかよく「相手の立場に立って」ということと「自分がされて嫌なことは相手にしちゃダメだよ」とかって同時に言われるから、相手の立場に立つこと=自分の気持ちを相手に当てはめること、みたいになってて、他者を本当に「他者」として扱えなくなっているのではないか。そして特に戯曲に向き合うときはそれがさらに顕著で、戯曲の中の人物を、理解可能なものとして共感してしまう。他者として扱えない。

でもじゃあ、理解できない人物を自分が演じなくてはならない時、どうするか?例えば自爆テロの実行犯の気持ちは到底自分には理解できない、つまり“なりきれない”わけだが、その役を自分が演じる時、演技という意味ではどうすればいいのだろうか?今日のとりあえずの答えは「“なりきれなさ”をどう引き受けるか」ということ。まず、“なりきれない”ということを自覚することから始める、ということである。じゃあ具体的にどうするの?という疑問が当然次に湧いてくるわけだが、それについては引き続き考えていく。