2023.10.6日記

例えば、言いたいことを過不足なく言い得た、と思ったとき、それはニンゲンに共通の価値観に則って、それをなぞるように、相手に理解しやすいように言い終えた、というのにすぎないのであって、このなかに(あるいはその底に)、言いたくないこと、言い得ないこと、あるいはわからないことが幾層にも沈殿している。

佐々木幹郎「わからなさの矢印に沿ってーー太田省吾の劇の言語」

この前、「自分が言ってることが全部嘘のような気がする」ということを書いたけど、今日早稲田のエンパクでやってる太田省吾展を見て、さらにそこで無料で配布されてるパンフレットの文章を読んで、太田省吾が無言劇で表現しようとしたことも、やっぱりそうだよな、と思った。というか、多かれ少なかれ演劇は(エンタメのものを除いて)「人ー人の関係における伝わらなさ」を表現するもんだよなと。展示室で太田省吾の水の駅の映像流れてたけど、舞台上にポツンとある蛇口から水がチョロチョロでてて、そこに男や女がきて水を飲んだり飲まなかったりする。みんな無言だけど、お互いにさまざまな関係性を見せる。ゆっくり動く、相手に絡みつく、苦悶の表情を浮かべる、泣く。観客にとってそれは非日常的に映る。

私たちは日常普通に喋ることができる、と思っている。けれどもそれは全部嘘っぱちである。言い得ないことを言わないようにして、言い得ることの表面しか言葉にできない。それで意思疎通はできるかもしれないが、人と人が真にわかり合ったり関係し合えてるわけじゃない。

当たり前だけど。でも、この当たり前を、仕事とかに忙殺されてたら忘れることもあって、急にふっと思い出す。思い出してるうちはいいけど、どんどん鈍感になって、あっちの世界に行ってしまうかもしれない。