なんで謝るんだ?!

 過去をずら~っと振り返ると謝りてぇなってことがある。何気ないひとことが相手を傷つけちゃったな~とか。冷静に考えると私が悪かったよな~とか。謝ることができずに消化不良となってしまった事象が脳みそを圧迫している。全然関係ない第三者に自分の悪事を晒すときもあるのだが、第三者に赦されたとて罪悪感が完全に消えることはない。こんな消えない罪悪感を忘れてしまうまで一生抱えなきゃいけないことが私への罰なのかなって思う。罪に対して罰が少し重い気もするが、仕方ないよね。

 綿矢りささんの短編集「憤死」に収録されている作品の一つに「トイレの懺悔室」というお話がある。変なじいさんがいろんな小学生に声をかけて自分の罪を懺悔させるというなんとも奇妙な物語である。誰にも言えないけれど、全く関係のないじいさん相手ならべらべらと懺悔をしてしまう小学生たち。ある一人の小学生は「話してすっきりした。懺悔もいいもんだと思った。」と言っていた。さて、ここで問題。なんですっきりしたんでしょうか?う~んなかなかの難問。正答を教えてくれ現国の先生。私がこの小説を読んだのはたしか高校生くらいの時だったが、気にもとめなかった。しか~し色んな悪事を積み上げた今、なんとなくこの難問への答えを言語化できそうな気がする。

A, 自己否定に耐えられないから

だと思うんだよね。他者からの批判とかってわりと耐えられる。けれども自分で自分を否定してしまうのってなかなかきつい。だからこそ自らを否定する要素として存在する過去の悪事をさらけだして、誰かに赦してもらいたいんじゃないのかなって思うんですよ。
 さてさて、本来の懺悔ってのは神様に赦してもらうんですよ。神様は正直に言えば全部赦してくれるよ!っていう前提のもとで成り立つお話。無神論者には本来成立しないものなはずなんですね~。ううん?じゃあなんでよくわかんねぇじいさんでも懺悔ってのが成立してしまったんでしょうか。ここが、トイレの懺悔室が問う懺悔の本質なんじゃないかなって思ってます。別にこの小学生たちもじいさんに赦されてるわけではありません。じいさんはただ聞くだけ。なんも言いません。
 もしかしたらさっき出した答えは60点くらいかもしれません。懺悔の本質。別にだれでもかまわないし何も言われなくていいから謝りたい。これはなぜなのでしょうか。考えるうえでヒントがあります。それは「否定されない限り他者に依存しない行為」という点です。懺悔の本質にあるのは他者からの赦しではなく、誰かに言うという自分への赦しにあるのではないでしょうか?と。誰にも言えない罪を、誰かに言えた罪に昇華させることで、赦されたようなそんな気持ちになるからすっきりしたんじゃないのかなと、思うわけなんですよね。
 自分なりの結論がだせましたので余談とまとめをたらたらと。私も神様がほしいです。神様に全部さらけだしてごめんなさいして赦されたい。もしくは全部さらけだした私をビンタしてくれる人がほしい。罪に対して罰を得られると安心しちゃいます。赦された気がして。何も知らない被害者は一ミリも満足しないのにね。本当に私は傲慢な生き物だなぁと思います。
 少し話は変わりますが、匿名掲示板なんかにはよく自分の負の側面をさらけだす人がいます。現代の懺悔室はSNSに存在しているのかもしれません。誰かに言わないとその罪で息ができなくなっちゃう。人間って愚かでかわいい生き物ですよね~。好きだな…

 悪いなって思ったらその場でその人に謝るのが一番です。どれだけ時間が経とうとも、たとえその人がそのことを悪いと思っていなくとも罪が忘れるまで永遠に残り続けます。ごめんなさいは自分のためにあるのです。

 そもそも悪い事を悪いと思わない人間をうらやましいなとも思うわけですが、私のこの繊細な感情こそが、多くの人に好かれる要因でもあるわけですから、やはり人の気持ちには繊細な心で接して生きていきたいね。

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