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洗濯機のホースを捨てて、そうしてすこしだけ大人になる。

2021年8月6日、木曜日。
引っ越した翌日。洗濯機がおかしい。

洗濯機を、回せども回せども、水浸しのままなのだ。

どうやら排水ができていないらしい。調べてみると、どうやらホースの位置が違うようだとわかる。

洗濯機をなんとか持ち上げる。位置を直す。それでも排水ができていないらしい。調べる。どうやらホースが長すぎるらしい。ホースを取り出す。切る。戻す。

そうしてなんとか洗濯機が正常に動き始めた瞬間に感じたのは、

あぁ直せてしまった、というちいさな絶望だった。

余分だったホースの切れ端が、ベランダに転がっている。

恋人と同棲していた頃だったら。あるいは友人とシェアハウスをしていた頃だったら、きっと自分では直さなかった。

(直“せ”なかったのかもしれないし、直“さ”なかっただろう、とも思う。)

「たすけて〜」とかなんとか言って、人の手を借りていただろう。

それは「甘え」ともとれるし、「自立する、ということで、素晴らしいのではないか」とも思えるけど、

それでも私がそのとき感じたのは、「またひとつ、人に頼る口実を、人と関わる口実を手放してしまった」というちいさな絶望だった。

ひらたくいえば、
「またひとつ、ひとりで生きていける人間になってしまったんだ」
と思ったのだった。

「ご自愛とか、自己の機嫌を上手にとるのは素晴らしいことだと思うけど」という気遣いのある前置きのあとに、他人を頼らないのは本当に健康的なのか?、と、以前付き合っていた恋人に投げかけられた言葉は、重く、胃の奥のほうに横たわっていた一年だった。

互助、互助、互助、というけれど、
私は人に助けてもらうことがひどく下手だと思う。

それは他人の人生を自ら私の人生に巻き込む勇気がないからで、
それはきっと、他人の人生の責任を持つことがこわいからなんだろう。

人に助けてもらうには、勇気が必要なんだと思う。

それは、秋に確信になった。

夏から秋にかけて、自分の余裕がなくなって、周りの人に優しくすることがより一段と難しくなった。
それまでは、「自分が余裕があること」を申し訳なく思う癖があった。

しかし、私は「在りたい」自分と噛み合わなくなっていく日々が、もどかしくて、苦しかった。
人に優しくする余裕がひとつ削られていくたびに、MP(マジックポイント)みたいなものが、ぐんぐん減っていくのを感じていた。

人を傷つけたかもしれないことに、MPが擦り減る。フルーツサンドを食べる。MPが回復する。また擦り減る。プリンを食べる。MPが回復する。

自己修復を、試みる。“ご自愛”を試みる。

でもそれは本質的な愛じゃなかったんだと、MPがゼロになって気づいた。

「周囲にやさしく在りたい」という自分を守るために私がやることは、自分の余裕を削ることじゃなかった。自分の幸福を諦めたわけじゃなかったつもりだけど、自分が苦しくなることで報われたものがなかった、という学びは大きかった。

自分が幸福に向いていることが、他者の幸福に繋がるということが、きちんと輪郭を持った状態で飲み込めた瞬間だったと思う。

ずっと私の奥深くにいた、「自己が不幸であれば赦される」と思っていた昔の私と、きちんと決別できた瞬間だったと思う。



2021年12月23日、木曜日。
朝起きて、キッチンが水浸しだった。

夜中回していた、食洗機のホースが抜けてしまったらしい。

わー、なんてこった、と思いながら床を拭いて、ついでに少し気になっていた冷蔵庫の埃を拭いて、顔を洗って、メイクをして、寒くないように身支度をして、マフラーを巻いて、ずぅっと「欲しい」と思って予約しておいた作家さんの個展へと赴いて、気に入ったものをふたつほど買い、喫茶店の椅子に腰掛けて、コーヒーを口に含んだ。

とき、

『大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。(--いわさきちひろ)』

ふと、高円寺の喫茶店で出会ったその一節が、頭をよぎる。

「あ、きょうわたし、少しだけ"大人"になったのかもしれない」

と思った。

世界のすべてが大嫌いで、「まだこんなもんじゃないぞ!」とか息巻く一方で、自分自身をちっともゆるせなかった昔の私だったら、

朝、びたびたに濡れた床を見て、きっとうずくまっていただろう。

ぜんぶがもうどうでもよくなっちゃって、あったかくてやさしいお布団のなかで1日を過ごすことにしてしまっただろう。

だれにもやさしくできないから、だれにも会わない1日を送っていたことだろう。

今日はまだ全然、だれかにやさしくできる。

こうやって、人はやさしさをもらわなくても、自分からやさしくできるようになるのかな。



2021年12月30日、木曜日。

ベランダに転がっていた、余分だったホースの切れ端を、捨てた。

まだうまく言葉にできないけど、たぶんもう、洗濯機を直せても大丈夫。すこしだけ、大丈夫になった気がする。それが、離れていく行為じゃなくて、繋がる強さを持つ行為だと、なんとなく今は思えているから。



嬉しいです。