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いつか網戸をたのしく直せますように

(2022年・散文)

「生活」をしてみたかった。

あの日、セレクトショップで諦めた、パソコンの入らないちいさくて、でも可愛らしい緑の鞄を、買える私生活がほしかった。

Uberの袋が、転がらない生活がほしかった。

好きな人に恋したときに、生活能力がないことに引け目を感じなくていい、生活経験がほしかった。

ただ作り続けていくために、エンジンに燃料を積んでいくための生活じゃない、もっとささやかだけど、実直な、「生活」がほしかった。

5月。
半年ほどめまぐるしく動いていた仕事のラッシュが落ち着き、ここで休まなければ。と思った。

「生活」を手に入れなければ。

その頃の私といえば、あまりの多忙さと心の忙しさに、自分も周りも切羽詰まっていて、自分の口から出る話が愚痴ばかりな日々に辟易していた。

別に元来ポジティブで明るい人間ではないけれど、口を開くたびに他人に同調を求めるような愚痴が口をついて出たときに、ひどく失望したのを覚えてる。あれ、わたしってこんな人間だったっけ、と思うことがちらちらと増えて、人に接するたびにあらわになっていく自分の輪郭が、全くもって愛せないものばかりの日々だった。

休まなければ。

と思ったものの、
休むことが不慣れな人間は、そう簡単に休むことすらできないらしい、
ということになんと数週間もかけて気づく。
もう6月だった。

新卒のころ勤めていた会社の先輩が、「休みの日、何したらわからないんだよ」といって年中無休で会社に居たのを当時は内心せせら笑っていたが、今なら気持ちが察せてしまう。
休むのにも、技術が要るらしい。
大人になるとテクニックが必要なことばかりでいやになる。みんな一体どのタイミングで習得してるんだよ。

そしてそんな先輩をせせら笑っていた新卒は、6年後、どこに行くにもパソコンが手放せなくて、一目惚れしたちいさな鞄も、「出番がないだろう」と諦めてしまうはめになるのだ。

そうだ、パソコンを置いて出掛けよう、
となんとも当たり前のようなことに気がついたのが、6月。

パソコンを持たないことに罪悪感を感じなくなったのが、7月。

日が暮れた頃には仕事を切り上げて、お味噌汁を作って、Netflixを、金曜日は金曜ロードショーを観ながら夕飯を食べる、というなんとも想像に易い「生活」を手に入れたのは、8月のことだった。

「生活」は、穏やかで退屈だった。
でも、それが良い。だってそれがほしかった。

刺激物を2年半食べ続けて走ってきたんだから、ちょっとは余力でずるずると歩いたっていいじゃないか。と思うがままに9月に入ると、今度はものを作れなくなっていっている自分に気づく。

劇物を食べない代わりに、成長痛への耐性もどこかに行ってしまったみたいだった。ぬるま湯から出られないような感覚に、一生このままなのかも知れないと思うと、少し「生活」が怖くなった。

ぬるま湯から出て、自分の輪郭に触れるのがこわい。つくることと向き合うのがこわかった。
だってできなさや足らなさや至らなさと向き合わなきゃいけないってことじゃないか。

ぬるま湯から出るには「自分を信じてつくりぬいてみること」しかなかったみたいで、それはなんとも当然に難しいことで、数ヶ月ぶりにくるしい日々を過ごしたのが10月だった。

自分のアイデアを凡庸だと思う自分を抱えたまま、それでも自分がそのプロダクトにこうあってほしい、という硬いまなざしが存在していた、なんだかチグハグしたものがぶつかるようにつくるたびに、何をやっているんだろう、と思いすらする時間。出来上がった瞬間は飛び上がるほど嬉しいし、数時間経ってみればそんなことないかも、と思う繰り返しのなかで足掻く日々が、少し前の日常が、なんだかんだ始まってしまった。
始めてしまった。

私は飽きっぽくて貪欲な人間だから、退屈な穏やかさも、「それだけ」だとそれはそれで、飽き飽きしてしまうらしい。

「生活」をして、困りはしないだけのお金を手に入れて、私の代わりに夢と自分と奮闘してくれるコンテンツに自分の時間「だけ」を明け渡して行くこともできたけど、贅沢で貪欲な私は、それはそれでなんだか不安だった。

そういう日々は、自分を信じなくさせたと思う。
傷つくことや失敗を避けて、安全圏から夢を他人に委ねて生きることだと感じてしまったし、そらは私にとっては自分への強度を弱くする行為だった、と思ったりする。

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11月からはもう、めまぐるしかった。
作ることのくるしさにすら麻痺するほど、目のまわる2ヶ月で、あぁ!あのときの退屈を半分こ出来たらよかったのに!とかつまらないことを思いながら気づけばもう12月。12月31日。

来年はもう少しだけ上手に息継ぎをしたい。

「生活」と、仕事に分類される「やりたいこと」を、上手に行き来しながら、もうひとつふたつ、軽くなりたい。

「たのしく生きる」っていうことが、きっとその先にある気がする。

ひとりだとしても、ひとりじゃないとしても、たのしく生きていけますように。
いつか網戸をたのしく直せる日々を、自然と手のひらに握りしめられますように。

嬉しいです。