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「写ルンです」と「残しておきたい」について

いつからか、「写ルンです」を必ず持って暮らすようになった。

実際にシャッターを切ることはそんなにない。
大抵はスマホのカメラで撮っているし。

でも、ああいまこの瞬間…!と身体が先に動いた時に手に取るのは、スマホではなく「写ルンです」だ。 そういう、身体が先に動いた瞬間に写ルンですが手元にないと、取り返しのつかないような気持ちになる。

写ルンですの特性上、明るいところ、光が多いところでないとうまく写らない。 一台目は、暗くなってほとんど何も見えないような写真が多かった。その学びからか、光がたくさん取り込めるような場所でシャッターを切ることが多い。

久しぶりに、数年前にプリントした写真を見たが、意外とそれぞれの瞬間を憶えていた。 一瞬、これなんだっけ、と思うのだが、その次の瞬間には、「ああ、これ、ひらひら飛んでいたちょうちょ(モンキチョウ)を撮ろうとしたやつだ」と。その写真には、(本当は写っているのだろうが)ちょうちょの姿は見えない。見えなくても、撮りたかったものは憶えている。その感覚は、妙だ。妙というか、むしろ、見えないから、「撮りたかった瞬間の自分の衝動」のほうをよく思い出せるのかもしれない、とも思う。撮りたかったものがきれいにおさまっている時よりも、記憶をたどる線が、衝動のほうへ向かっているような感覚だ。まあ、きれいにおさまっている時も、衝動を思い出さないわけではないけれど。

それと、なんとなく自覚はしていたが、コロナ以降、しばらく写ルンですのシャッターを切れない日々が続いた。持っては、いる。いつも。でも、なんだかシャッターを切りたいと本気で思うほどの衝動が起こらなかった。スマホでは何度も撮った。その期間が終わりを告げたのはごく最近、というか本当に一週間ほど前のこと。久しぶりに小さなレンズをのぞいたなあと思った。

衝動を残しておきたいと思う感覚は、写真以外でもある。 大学時代、研究会で初めてクロッキー帳を手にして以来、ずっとクロッキー帳を使っているのも同じ感覚からだと思う。

文字の勢い、私の、ペンを握る手の力強さ、迷い、残された余白、隙間。

つづく。

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