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人の体感に入り込む・うつる・引き出す

「我」について考えていると、 どうしても「何かになりきっている自分」という感覚についてきちんと掘り下げる必要が出てくる。ので、考えてみた。

幼い頃から、なりきりごっこが大好きで、 特にディズニーの「眠れる森の美女」と、ジブリの「となりのトトロ」のセリフも表情も動きも、まるごとなりきって遊んでいた。 今でも大体(台詞は曖昧になってきたが)覚えていて、いつでもなりきりごっこを始めることができる。


本を読んだり、ドラマを観ている時、あるいは観たあと、 その中に出てくる登場人物の体感が、自分の身体にそのままうつる。 うつるというか、流れ込むというか、乗りうつるというか、よくわからないんだけれども。

さらに、LINEのスタンプに対しても同じような感覚が生まれることがある。 たとえば「よつばと!」や「うちの三姉妹」のスタンプを使っているうちに、 日常生活の中で、「いまあのスタンプみたいな感覚!」というのが、LINEを使っていない瞬間にも起こる。うちの三姉妹のフーちゃんの体感がうつった!とか、よつばの体感がうつった!という感じ。

だから、私の身体には、私の大好きな様々な物語の登場人物の体感があって、 篤姫の体感、八重の桜の八重の体感、麒麟が来るの帰蝶の体感、よつばと!のよつばの体感、チャングムの誓いのチャングムの体感、となりのトトロのメイちゃんの体感、ガラスの仮面の北島マヤの体感、が、全部あるのだ―ということが今やっとわかった。

その「体感」というのは、 声の高さや内臓への響き、目の力み、目の輝き、表情、立ち方、立っている時のちょっとした体のねじれ、など―

「なりきる」とかではなく、 そういう体感が、ふとした時に引き出される感覚、と言ったほうが私の体感に正確だ。

自分から能動的に「●●になりきろう」とすることもよくあるけれども、 意識せずに勝手にその体感が引き出されることのほうが多くて。

あとから、「あ、いま私篤姫だったわ」となる。(どういうことだよ)

このあたりの内容は、「系」の話とかなり近いところにあるのではないか。

体感に入り込むとはどういうことなのか。

特に、物理的には「声のない」マンガや、「ビジュアルも声もない」小説に対しても、 そのような体感を獲得するというのは、一体私に何が起こっているのか。

そしてさらにいえば、この感覚は、 「自己肯定感」的なことにも近いものがあるかもしれないとも思う。

だって、自分がこうなりたい!かっこいい!と思うような人物の体感が自分の中に取り込まれていて、いつでもそれを引き出すことができるのだから。

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