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『どうでもいい人からは好かれるけれど、好きな人からは好かれない』の意味

自分が好きな人からは好かれないけど、自分がどうでも良いと思う人からは好かれる

そういうことで悩んでいる時期はあったかもしれない。

私は基本的には、自分が好きな人からも好かれていたし、そうでない人からも好かれては来たので、ある意味自分の恋愛面での自信は過剰気味だ。

私の良いところが相手にも伝わるはずだと信じていたし、そういう自信が相手に伝わって好いてもらえると信じていた。

実際そういうよく分からない自信はかなり現実化していると思うので、失恋する時は大抵、「好きじゃなくなったから」ではなくて、何かやむを得ない事情や、相手自身のエゴや思考の部分、私が抱えている別の対人関係の間違った信念でうまくいっていないように思う。

原因は受け取り下手と自己嫌悪

好きな人には好かれないと悩んでいる人にとって、一番の問題は自分の評価が低く、さらに好意の受け取り下手だという話を他の人の記事から拝借させていただく。

なるほどなと思うのは、蛙化現象と言われている、ある瞬間に相手のことが気持ち悪く思えたり、好きだと思っていたのにいざ両思いになると相手のことが気持ち悪く思えてくるのは、自己卑下が原因だと思っていた。

自己嫌悪のまま、相手に憧れを持って好きになるけれども、自分のことを好きではないから、こんな自分のことを好きだと思う相手の気持ちが気持ち悪いのだ。

私が好きだった男の子に対して、両思いだと分かったのに振ってしまったことが小学校5年生の時に起こった。
なぜかと言うと、その時は私は自分の女性的な体の変化が起こり始めた時期で、生理が始まったり、胸も少し目立つようになってきていたからだった。

私はその時は、とても自分の女性という性が嫌で穢らわしいものだと思っていた。
初潮をなぜか赤飯で祝われることも、体が今までと違って女らしくなってしまうことにも嫌悪して、そんな自分の女性的な体を含めた私を好きだと言われても、下心とか何かその先にあるエロティシズムにつながっているのではないかという嫌な気持ちでいっぱいだった。

好きな人だと思っていた相手から好かれることでさえ、自己嫌悪(女性性の嫌悪)があると気持ち悪いと思ってしまう。
だとしたら、好きでもない相手から好かれることはもっと気持ち悪いに違いない。

自己嫌悪がそこまで根深くなければ、私のように「気持ち悪い」とか蛙化現象まではいかないかもしれないけれど、それでも自分を好いてくれる誰かの気持ちを拒否してしまうのは、自分にはそんな資格がないと思う一方で、「私が認めていない相手から好かれることに意味はない」という受け取り下手というか、差別だ。

私が好きな人には価値があり、そうでない人には価値がない
好きではない誰かは自分より優れていないと思い込む自分の劣等感や自己卑下が根本に見え隠れする。

別に誰からでも好かれることは悪いことじゃない。
たとえ性的な魅力で好かれていたとしても、何か危害が起こらない限りは何も好かれることで問題はない。

それにも関わらず、他人からの好意を鬱陶しいと思ってしまうのは、自分が誰かから好かれることを根本的に拒絶しているサインなのではないか?


自分が両思いでなければ、両思いは始まらない

自分自身を自分が受け入れられないのに、なぜ他人が自分を受け入れてくれると思うのだろう。

自分自身はある意味2人いる。
自分自身と自分を俯瞰して眺めている自分。
感情の自分と理性の自分だ。

自分を眺める自分は、客観的に自分を評価し、あるいは思い込みで自分を評価する。

この感情の自分と自分を眺める理性の自分がお互いに抱き合わない限り、他人からの気持ちを受け入れることができない。

自分自身が誰かを好きになり受け入れようとしても、自分を眺める自分は「あなたにはそんな資格ないよ」「あなたは受け入れてもらえないよ」「あなたはこういう欠点があるから無理だよ」と自分と相手の仲を引き剥がそうとしてくる。

自分が自分を受け入れるというのは、自分の理性が自分というものを良いも悪いも判断しなくなることだ

例えば、現実の自分は誰かに怒っているとしても、自分を眺めている自分は「そんなことで怒るなんて最低なのはお前だろ」と自分を責めたりする。
だけども、感情的になっている自分は止めることはできないし、それをどうやって対処して良いか分からず我儘に振る舞ったとする。

理性の自分は、「そんなことする奴は信じられない」と感情の自分を許すことなく、わだかまりは続くのだ。

自分自身が喧嘩している中に、誰かが「あなたのことが好きだよ」と感情の自分と理性の自分を2人とも抱きしめたら、「お前はこんな感情の自分を好きなのか?信じられない」と理性の自分は言うだろうし、感情の自分も「こんな批判ばかりで堅苦しい自分は嫌い」と駄々を捏ねることになるだろう。

誰かに好かれるということは、2人の自分を受け入れてもらうこと。
自分がまずは仲良しでなければ、どこかで喧嘩が起こるということだ。


自分が両思いになれば、好きな人から好かれるようになる

完全に自分自身と仲直りまでできなくても、自分の中のわだかまりが大方なくなれば、感情の自分と理性の自分が統合して、自分の好きな人から好かれるようになる。

別になんとも思っていなかった相手から好かれて、その事実を知ってから相手の素敵な部分に気がついて両思いになることもある。

おそらく、自分自身が今まで生きてきた中で「これは大切にしたい」「こういうことをしていきたい」と心から望めば、そういう要素を兼ね備えた相手にも出会えるような気がする。

自分が自分を受け入れられるようになることで、他の誰かにも「許せない」と思うことが減って受け入れる度量ができるのだと思う。

条件をつけまくって「この条件でなければ」とこだわる人ほど、同じくらい相手にも自分にも許せていないし、OKだと思えていないから、良い人が目の前に現れてもその機会をうまく活かすことができない。

その割に自分を舐めてかかっている人には、一方の自分が自分を軽蔑しているから、蔑ろにしている人の味方になって結託して、もう一方の自分を馬鹿にして「良い気味だ」と思っているのだ

自分が自分を許容し信頼することができれば、幸せを受け取ることがもっとできるようになっているはずなのだ。

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