【水色日記】目覚まし時計は玉子焼き

ジリリリリッではない。ジューッである。僕の目覚ましの音だ。

香ばしい匂いが六畳一間の部屋にたちこめる。この香り。彼女が朝食を作ってくれてるこの音が、僕の“目覚まし時計”になって、もうすぐ一年になる。

目が覚めても、まだ起き上がらない。布団に包まりながら、少し香りを堪能して、予想する。

この香ばしい匂いは魚だろうか。そういえば昨日買い物行った時に鮭買ってたな。じゃあきっと今朝は和食だ。てことは味噌汁もあるな。具はなんだろう。昨日油揚げも買ってたし、きっと油揚げと豆腐の味噌汁ってとこだろうか。カチャカチャと食器の音がする。そろそろ出来上がりのようだ。

ボフッ!──っ痛!
『朝だよー!朝だよー!ご飯の時間だよー!』と、彼女が降ってきた。痛ぇ。でもこの起こし方はご機嫌な起こし方だ。アバラをさすり、起き上がる。さぁ答え合わせの時間だ。

「おはよう。やけにゴキゲンじゃないか。何かいい事でもあるのかい?」と尋ねると、
『今日は買い物にいくの!』、と。
チビっ子か。遠足前のチビっ子かと、とりあえずのツッコミを入れてテーブルにつく。

ご飯、焼き鮭、昨日の余りの鶏肉と大根の煮物、味噌汁は油揚げと豆腐と…おぉ、大根の葉か。これは予想外だ。さすがだな。それと、毎朝恒例の甘い玉子焼き。

じつを言うと、僕はしょっぱい玉子焼きが好きだ。いつも僕の好みに合わせて料理を振舞ってくれる彼女も、ここだけは譲ってくれない。甘い方が美味しいしフワフワに出来るから好みなんだと。まぁでも確かに美味い。甘い玉子焼きが苦手だった僕も、彼女が作る甘い玉子焼きは不思議と美味く感じたし、今となっては好物のひとつだ。

そんな彼女から、二回だけしょっぱい玉子焼きを振舞われた朝がある。前日に大ゲンカした日の朝だ。

とてもわかりやすいご機嫌取り。そんなんで僕の機嫌が直るものか。なんて思うのだが、どうにか機嫌を直してもらおうと、いつものこだわりを捨て、健気に僕の好みに寄せて朝食を作ってる姿を想像すると、残念ながら愛おしくなってしまう。なんてチョロい男だろうと、我ながら笑えてしまう。


さて、今朝も美味しい朝食だった。仕事に向かうとしようか。今日はオフィスを離れて取材の仕事だ。業界の大物である某氏のインタビューで、吉祥寺へ。行ってきますの“アレ”を交わし、ご機嫌な彼女に見送られ玄関を出る。さぁ、頑張るか。

ここ最近とても忙しくなってきた。フリーランスの身としては、忙しいというのはとても幸せな事だ。仕事が無い恐怖の日々を送ってきた身としては、仕事に追われるというのは、ありがたみすら感じてしまう。おかげでしばらくまともにデートに連れてってやれてないのは心苦しいが、まぁ今は頑張りどきだろうと、気持ちを奮い立たせて今日も僕は闘うのだ。

約束の時間まで少し時間がある。さすがは吉祥寺。素敵ななカフェがたくさんある。フレンチシャビーの可愛い内観。看板に映る、美味しそうなパンケーキに誘われて、約束の時間まで〆切の迫る原稿を進めておこうと、コーヒーと共に注文した。

待ち合わせ場所の指定を受ける為に30分前に電話を頂く予定だったが、連絡が来ない。こちらからも電話をかけてみるが繋がらない。今日はその後の予定も入れてないから多少おしても構わないが、連絡が取れないのは、まぁ困ったものだ。

10分を切っていよいよソワソワしてきた。原稿にも手がつかず、とりあえず煙草に火をつける。何度かかけてみるものの一向に繋がらない。きっと相手側の着信履歴は束縛の強いカップルみたいな事になってるだろうなと、冗談混じりに思いつつも、やはり困る。

そのまま時が経ち、約束の時間を20分ほど過ぎた頃、折り返しの電話かかって来た。電話を受け、僕は失念した。
簡単にいうと、大手メディアから依頼が入り、予定変更の連絡を前もってしたつもりが手違いでしていなかったとの事。どうにか食い下がったものの今日はもうスケジュールが取れないとの旨を伝えられ、電話は切れた。

こういった事は、まぁ稀にある事だが、その度にいつも僕はフリーランスの立場の弱さや自分自身の力の無さを痛感する。僕に力があれば、予定を入れ替えられる事もなかったわけだからだ。まぁ気分は最悪だ。

とりあえず約束の予定は無くなってしまった。同時に、ここにいる理由も無くなった。苛立ちを紛らわす為に、少しこの街を散歩しよう。

予定も空いてしまった事だし、最近デートもしてないし彼女を呼ぼうか。いやでも今朝すげぇ楽しみそうに買い物いくとか言ってたし、水を差すのもヤボなハナシか。じゃあなんか連れてってあげれそうな所でもリサーチしてから帰ろうか。と、そう思った。──その時までは。


“良くない事は重なるもの”とは、よくいったものだ。先ほど、最悪だとこぼしたが、訂正しよう。今こそがまさしく“最悪”だ。なにせこの瞬間、僕の目に映っているのは、見た事ない男性と僕の彼女が楽しそうに買い物をしている姿を目撃してしまったからだ。

浮気と決めつけるには早計だ。僕らもいい大人であるから、異性と食事に行ったりする程度は容認できる。でも、言い方は悪いかもしれないが、仕事をすっぽかされ、苛立ちきっていたこの時の僕には、そんな余裕などもはや無かった。

曇った気分は拭えない。家に帰る気も起きない。帰って顔を合わせたら怒鳴り散らせてしまいそうだ。仕事するにも手がつかない。くそ。こんな時に限って時間が経つのが遅い。どうにもこうにもやる気が起きない。こうなったらヤケだ。数年ぶりにパチンコに行ってみる。そりゃもうこんな気分で行った日は、案の定の大敗だ。最悪だ。更に輪をかけるように、彼女から“今日はご飯食べてくるね♪”とLINEが入る。本当に最悪だ。

パチンコにも負けた事だし、チェーン店の安居酒屋に入り、適当に食事と酒をかっくらう。“気分”とは正直なもので、気づいた頃には相当数の酒を空けていた。会計は四千円ほど。飲み過ぎた。安居酒屋に入った意味がまるでない。なにが“笑笑”だ。まったく笑えたもんじゃない。八つ当たりもいいとこなのは百も承知だが、もう本当最高な一日だ。

時刻は22時を少し過ぎた頃。いい加減時間を潰すにも限界を感じ、家に帰ると、彼女はまだ帰ってきてないようだった。とりあえずシャワーを浴びて、顔を合わせる前に先に寝ちまおう。そんな目算を立ててシャワーから出るとちょうど帰ってきた。どうにも話す気が起きなかった僕は、疲れたから寝ると一言だけ伝え、ウキウキでなにかを話したそうな彼女を尻目に、眠りについた。


翌朝、いつも通り“目覚まし”が聞こえる。だが、だめだ。どうも気分が整わない。昨日の苛立ちと深酒の二日酔いがまだ引っ張ってる。自分で言うのもアレだが、らしくない。

朝ごはんもうすぐできるよと笑顔で言う彼女に、八つ当たりに近い黒い感情が抑えられなく、今日いらないと冷たく言い放ち、そそくさと支度をする。顔も洗わずに出て行こうとする僕を不思議に感じたのか、どうしたのと彼女が尋ねてきた。急いでるんだと一言告げると、ちょっと待ってと引き止められたが、今日はいつもより早く出なきゃいけなかったんだと適当な嘘をついて家を出た。

それからと言うものの、モヤモヤが抜けない一日だ。イマイチ色々と手が付かず悶々とした一日。何か大切なことを忘れてる気がするが、そんなとこまで気が回らない。

ちょうど昼飯を食べおえたあたり、彼女から『今日は〇〇ちゃんの家に泊まるね』と彼女の親友でもあり、僕らの共通の友人である子の家に泊まる旨のLINEが届いた。普段はなにかしらの顔文字とかを付けて送ってくるが、何も付いてない素っ気ない単文に少し違和感を感じ、僕はいつも通り了解と単文を送っといた。

夕方になり一通り仕事を終えた頃、さすがに少し気持ちも落ち着いてきた。仕事的にもこのまま帰っても平気なくらいだが、今日は彼女もいない事だ。早く帰る必要も無いなと思いつつ、まぁ、“誰”の家に行ってるんだか、と邪推をしながらもうひと頑張りする事にした。

──そして、僕はこの後、忘れていた事、いや、“忘れてはいけない事”を思い出す事になる。


少し疲れたなと。詰め込み過ぎたかなと思いながら、駅前のコンビニで適当に食べ物とつまみを買い、家に帰る。

暗く、静かな部屋。夜でも少し暖かくなって来たここ数日の天気もあり、最寄り駅から少し距離のある自宅まで歩くと、喉が渇いた。とりあえずビールを取ろうと冷蔵庫を開けると、一本ロウソクの刺さった小さなアップルパイが入っていた。

アップルパイは僕の好物だ。あらかた僕の朝の態度を察して、きっと用意してたんだろう。悪いが、さすがにそこまでチョロくない。ビールだけ取り出し、部屋の明かりをつけた。

部屋がパっと照らされると、テーブルの上に置かれた小綺麗な紙袋が目に飛び込んできた。

だが、おかしい。ロウソクの刺さったアップルパイといい、プレゼントらしき紙袋といい、なんか祝い事のつもりだろうか。仲直りのご機嫌取りにしては、どこか“やりすぎ”な気がする。でも、僕の誕生日も彼女の誕生日もまだまだ半年以上先だ。一体なんのつもりだと若干苛立ちつつ、部屋を見渡すと壁にかかった日めくりカレンダーが対面した。

最悪だ。この瞬間ほど全身の血が引いたことはない。ハートで囲まれた今日の数字を見て、思い出した。

──きょう、一年記念日だ…。



最悪だ。本当に最悪の最悪の最悪だ。忙しさにかまけて、すっかり忘れていた。“もうすぐ一年”なんて悠長なこと言ってる時期じゃなかった。一本のロウソク。プレゼント。全部繋がる。あぁ、この紙袋、彼女と男を見かけた店のやつだ。そうじゃん。おれ見かけたの、メンズフロアだったじゃん。そういう事か。プレゼント選びに一緒に行ってたのか。昨日の朝のウキウキした表情はそういう事か。記念日を忘れてた上に、仕事の八つ当たりで勝手に勘違いして酷い態度とった自分を呪いたい。こんなB級恋愛小説みたいな展開が、現実に降りかかるなんて思ってもみなかった。

急いで彼女に電話したが、出ない。ならば、と。泊まりに行くと言っていた彼女の親友に電話をかけると、すぐに出た。

自分でもなんて言ったのか覚えてない。それくらい動転していた。そこに来てるか的な事をたぶん聞いたんだと思う。

うん、いるよ。と一言。彼女とはなんでも話し合える仲の彼女の親友はこう続け、全てを教えてくれた。

今は彼女は泣き疲れて寝ているところだという事。
最近忙しそうで寂しいという事。
でも頑張ってるから嬉しいという事。
落ち着いたら海を眺めに行きたいという事。

最近料理の腕が上達したという事。
嫌いなトマトもシチューに混ぜたら気付かずに食べてて嬉しかった事。
毎朝玉子焼きを作るのは、初めて僕に美味しいと言われた料理だからという事。

もうすぐ一年記念日だから楽しみという事。
プレゼントなににしたら喜ぶか悩んでたという事。
彼女の親友の彼氏のお陰で良いのが買えたと、はしゃいでいた事。

今朝すごく不機嫌で怖かった事。
なんか気に触ることをしちゃったのかなと心配になった事。
早く帰ってきて欲しいと伝え損なった事。
弁当を渡し損なった事。

楽しみにしてた一年記念日だから家で帰りを待ってようかと思ったけど、今日を楽しめる自信がなくなって不安になって親友の所へ訪れたという事。
このまま喧嘩したくないという事。
そして僕が、大好きだという事。


情けなさと、愚かしさと、自己嫌悪と、ありとあらゆる真っ黒でマイナスの感情が頭を埋め尽くして、真っ白だ。


ふとゴミ箱に目をやると、プラスチックの容器に詰め込まれたお弁当がある。
おにぎりと、玉子焼き。今朝、冷たくそさくさと出て行ったから受け取らなかったやつだ。ゴミ箱から取り出して、玉子焼きをひとかじりした僕は、膝から崩れ落ちた。

しょっぱい。彼女が作る3度目のしょっぱい玉子焼き。昨晩の僕の態度を察して、そして楽しみにしている一年記念日が台無しにならないようにと作ってくれたものだったんだと、想像するには簡単だった。


どうにか、今すぐにでも謝りたい。一方的な八つ当たりと勘違いによる昨日からの酷い態度を、そして楽しみにしてた一年記念日を忘れて、台無しにしてしまった事を。心の底から。

ちょうどタクシーで帰る途中だというからウチまで送ってもらえるように頼んだら快く承諾してくれた。

そうだ、しなければいけない事がある。
そう、バタバタして15分くらいすると、彼女が帰ってきた。

泣いてようが、怒ってようが、今彼女の顔を見るのは怖かったし、合わせる顔がないと思ったから、玄関がガチャっと空いた瞬間、顔を下げてとにかく謝りに謝った。

仕事で苛立っていた事、浮気を勘違いした事、冷たい態度をとった事、記念日を忘れたいた事、しょっぱい玉子焼きを食べたこと。全部説明して、全部謝った。

ははっ、だってよ─。と。聞き慣れた声より、少しだけ低い声を聞き、顔を上げると彼女の親友がいて、その後ろに隠れるように彼女がいた。

仲良くやんなよ、あ、今度ご飯おごってね。と一言残し、彼女の親友は去っていった。

おかえりと彼女に伝える。怒っているとも、悲しんでいるとも、なんとも言えない表情を浮かべ無言の彼女に改めてすまないと伝えた。

本当にすまなかった。すっかり忘れてしまっていたし、こんな時間だからプレゼントも用意できてないんだ。だから…コレ、食べて欲しい。

彼女が帰ってくるまでの間にバタバタと作った玉子焼き。彼女の作る玉子焼きとは、見た目が酷い出来栄えだ。

驚いたに近い、ほんの少し緩んだ表情で、一口。彼女はつまんだ。

…甘い。…ベチャベチャだね。…うん、美味しい。と。
私の方が上手だねと、少し、笑ってくれた。

彼女のいつもの笑顔を見た、そこからその日の夜の事はあんま覚えてない。というか、そういう事にさせといて欲しい。まぁ恥ずかしいから割愛させて頂こうってハナシだ。


本当に、本当に。小さくて、小さくて、小さくて。下らなくて、些細過ぎる、そんな勘違いやすれ違いや意地っ張りから、喧嘩やトラブルは大きくなってしまう。

でも、話し合い、言葉を重ねていけば。相手を思いやる気持ちを忘れなければ。
そんな問題は、また乗り越えて、ひとつ絆を固める事ができる。

この日は僕にとって、今までで一番言葉を交わし、相手への気持ちを想いなおす、最悪で最高の一年記念日となった。


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ジリリリリッではない。ジューッである。僕の目覚ましの音だ。

香ばしい匂いが六畳一間の部屋にたちこめる。この香り。彼女が朝食を作ってくれてるこの音が、僕の“目覚まし時計”になって、一年ちょいになる。

ボフッ!──っ痛!
『朝だよー!朝だよー!ご飯の時間だよー!』と、彼女が降ってきた。痛ぇ。でもこの起こし方はご機嫌な起こし方だ。ふとももをさすり、起き上がる。

「おはよう。やけにゴキゲンじゃないか。何かいい事でもあるのかい?」と尋ねると、
『もう!今日は海にいくの!』、と。
「大丈夫、約束したもんな」となだめ、テーブルにつく。

ご飯、アジの開き、昨日の余りのタケノコと里芋の煮物、味噌汁は小松菜と豆腐と…おぉ、タケノコか。これは予想外だ。さすがだな。それと、やっぱり甘い玉子焼き。

ごちそうさまと、一通り食べて、今日はゆっくり支度する。

準備を終えて、よし、行くかと玄関に向かうと、ちょっと待ってと引き止められた。

冷蔵庫からお弁当を取り出し、持ってくる。なんでも、海を眺めながら一緒に食べるんだと。


おかずはなんだろうか。昨日の余りだろうから、唐揚げとタコウィンナーと、あと彩りも気にして小松菜のお浸しも入ってるだろうし、それとやっぱり…

いくよー!と元気な声。いい天気に、最高の笑顔だ。
さて、答え合わせの時間は、もう少しあと──。





って、妄想を一通り終えたのでちょっと新しい目覚まし買ってきます。





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