どんな時も 絶えることない永遠を 愛と信じてる

どんな時も 絶えることない永遠を 愛と信じてる

このフレーズを普通に表現をするのなら、

どんな時も 絶えることない永遠 “の” 愛 “を” 信じてる

という「てにをは」の使い方になるんじゃないでしょうか。
ですがこれではあまりに一義的で、聴く者の想像を掻き立てません。
あえて与えられた違和感が、このフレーズに文学性を生み出しているように思えます。

今日はごく簡単に、このフレーズの解釈に努めます。
2つほど切り貼りしつつがんばります。
まず初めに、以下聖書の言葉を紹介させてください。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である。

コリント使徒への手紙13章13節


信仰も希望も愛も、アイドルからファンへ向けて提供されるもので、かつ秋元康氏は、愛を現実の中で至上のものとして描く節がある(『ありがちな恋愛』の「愛よりも大切な夢を~」等)ので、この聖書の一節に影響を受けているのではないかと常々思っていました。

神の愛はさておいて、アイドルも含めて人間個人の間で交わされる愛は、どうしても有限であることを避けられません。
人間の命の限界と、1つの想い(感情)を持ち続けることの限界がその要因となっています。
続いてはこの有限性に着目し、とある戯曲より、以下の台詞を紹介させてください。

愛する人が1日で死ぬから人は苦しむ、と、そう人は思っているが、人間の本当の苦しみはそんな軽薄なものじゃない。本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ。苦悩ですら、意味を奪われている。

アルベール・カミュ/カリギュラ

人間の本当の苦しみの根源は、時の流れによりすべてが洗い流されてしまうこと、いわば“永続性の不在“だとこの戯曲では語られています。
『五月雨よ』の主人公は、永遠が存在しないことをきっと知っています。
それは、この曲を真ん中で歌っている天ちゃんも同じで、聴いている私たちもそうです。
加えて、『一瞬の馬』において、櫻坂の世界観のなかでも当然のごとく永遠が存在しないものであることが明言されています。

また、永続性の不在に気づくときの苦しみも多くの人が感じたことがあるはずです。
昔あれほど情熱を傾けていて、自分は一生これを好きで、愛し続けるだろうと思っていた人、場所、コンテンツ等から、いつの間にか心が離れてしまっていることに気づいてしまったときの、あの言い表しようのない罪悪感みたいなものがそれにあたると言えるでしょう

上の2つ、つまり、永遠が成しえないことと知りながら、また、成しえないと本当に理解してしまうことに苦しみが伴うことを知りながらもなお、「この時が永遠に続いてほしい」、「この想いが消えませんように」と願う姿こそが愛だ、というのがこのフレーズの本質ではないかと思うのです。
その姿を、人はばかげているというかもしれません。
しかし、物事に終わりがあることを受容しながら、その先を描くことを諦めない在り方は、人間の強さだと私は信じています。


有限性を帯びたものに対して永遠を錯覚し、祈る姿。
それはひとつの信仰と言えるかもしれません。
だからこそこのフレーズは、アイドル(Idol)が語り掛ける言葉として強く惹きつけるパワーを持っているのだと思います。
とはいえ、この楽曲についてはまだまだ理解が追い付いていない部分が多いです。
次に聴くときには、また別の感想を抱いていると思います。
空模様のように、向き合うたびにその表情を変える。
それもまた、この楽曲の魅力のひとつです。

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