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『祖父が他界した。』
祖父が他界した。
病院にかけつけたときには、静かに目を瞑っていた。
両親の話によると、呼吸がだんだん長くなり、脈がしだいに低くなり、苦しまなかったのだという。
病院でなくなったので、医師は、「死因は、おそらく…、」と述べた。
私には老衰に見えた。
祖母は一切、泣かなかった。
医師に死亡を告げられると、お世話になりました、と頭を下げると、
これからどうするや、葬儀はどうするや、と現実的な話をした。
通夜も、葬儀も、火葬の時も、泣かなかった。
我慢して気丈に振る舞っているのではなかった。
まるで他人の葬式のように、
淡々と形式的なしきたりをこなすということをしていた。
あまりに悲しまないので、こちらまで悲しくなかった。
母は、おばあちゃんらしい、性格なんだろうね、と言った。
確かに、厳しい性格の祖母らしいと思った。
祖父が96歳の高齢だったということもあり、覚悟はできていたというのもあるのだろう。
しかし、それだけではなく、
祖母は、死に慣れているのだと思った。
大正生まれの祖父母が生きた時代というのは、戦前、戦中、戦後であった。
祖父は男6人、女2人の8人兄弟。
祖父の母は、
「うちは男の子6人全員兵隊に出したが、見てみろ、全員生きて帰ってきたぞ」
というのが自慢だった。
子供が死ぬということが当たり前だった。
祖母は戦時中、ナースだった。
当時、広島の原爆ドームの周辺は、軍隊の施設であり、その中にある陸軍病院に勤務していた。
言うまでもなく、何人もの死を見てきた。
祖父は18歳の時、自ら志願して工兵部隊に入った。
旧満州からシベリアで抑留され、むねにジャガイモを二ついれて木を伐採し、昼頃になるとそのジャガイモが身体の熱であたたまり、それが昼飯だった、という。
棺の祖父を眺めながら、
「ようそんなろくなもんも食わずに、生きとったよのう」と祖母は言った。
そして葬儀場の天井を眺めながら、
「霊安室とは大違いじゃのう…」と言った。
「陸軍病院の霊安室の外には、必ず兵隊が一人立っとったんよ。あそこはねずみが出るんよ。お国のために戦死した兵隊を、ねずみがかじったら、おおごとじゃろうが。」
祖母は、死に慣れているのだと思った。
死というものが、そういうものだと受け入れているのだと思った。
昔の人は、みんなそうだったのかもしれない、と思った。
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