伊達双騎の感想

はじめに


なるほど!鶴丸と大倶利伽羅の昔話なんですね。とふんふん見ていたら見入ってしまったし色々膝に受けてしまって大変です。
っぱミュージカル刀剣乱舞はこうでなくっちゃね…という感じの公演でしたね。ぐちゃぐちゃにされちゃった
一本にまとめられなかったのでトピックごとにまとめます。
ものすごく歴史やミュージカル刀剣乱舞に詳しい人間ではないので、甘いところが多々あると思います。好きなところだけ読んでください。

大倶利伽羅の誕生と鶴丸国永


大倶利伽羅が顕現した時の表現があまりに好きだったのでここで最高を確信してしまいました。
眩しそうに目を細めて、重い瞼をあけて、これが肉体 己の体……とどこか呆然としたように確かめる姿がなんだか眩しかった。生まれたてのいのち…。
刀剣男士って最初から心も頭脳もあるから突然身体に押し込められたらどんな気持ちなんでしょうね。さぞかし身体が重いんだろうなと思います。

鶴丸スパルタボコボコシーンが痛々しくて、見ていて顔を背けそうになりました。
正直いいやり方だとは思わなかったんだけど、鶴丸はそこまでしても先に不快な感情を教えたかったんでしょうね。そもそも鶴丸もいいと思ってやってるわけじゃないと思う。
鶴丸、色々あって(江水散花雪の「折れたんだ」事件とか…?)余裕もなくて、自分もめちゃめちゃ傷ついてて。
でも顕現したばかりの、「俺一人で十分だ」なんて言っちゃうタイプの大倶利伽羅を、仲間と(自分と)「命預け合える」子に育てなきゃいけなかった。
大倶利伽羅の性格上、やさしく教えていくより反骨心を引き出した方がいいと思ったんでしょうか。
大事な仲間を血だらけにするのそりゃ鶴丸だってキツいでしょうよ。それでもやったんだよね それより大事なことがあるから…ほんとによ…。
怒り、屈辱、憤り、悔しさ…これらの感情って強いエネルギーになりえるし、なにより経験しないと理解できない感情ですよね。
キツい目に遭わせる側の方がキツかったりするからね。でも大倶利伽羅重傷手前くらいですよね多分。手加減はない…。痛い。

もう少し早く生まれてれば天下取れたってか?
時間ってのは埋まらねえように出来てる

あれ、これ、どこかで…
『江水散華雪』の山姥切国広と大包平のやりとりを思い出してオタクは…。

「貴様なんかに負けてたまるか!」
「そうだ。お前はたかが写の俺に遅れをとることなんか許されない」
「屈辱だ!貴様は強い!だがそれは、俺が刀剣男士として見出されたのが遅かったからでしかない。いつかは貴様を超えてみせるからな!」
「越えられるさ」

江水散華雪

こちらのやりとりの「裏」では…と思ってしまいました。
今回のお話は、月の表と裏を引き合いに出すことが多かったじゃないですか。
大包平が山姥切国広を超えてやる!っていう話は眩しく前向きな話で、それ自体にマイナスの意味もないですし(山姥切国広も俺なんか超えてしまえーって言ってるし)。
もちろん、努力で実力を上げればこのように追いつくことはできるんですよ。でも、今回の伊達政宗が歴史の表に上がる機会を逃してしまったように、時間というのはどうあがいても埋められないことがあるんですよね。
鶴丸もそう思う出来事があったってことですか?

伊達政宗と手紙


大倶利伽羅の知ってる伊達政宗は、酒を飲み歌を詠む人 戦を忘れた末路だ
…と言うところで改めて思ったんですが、大倶利伽羅って最も信頼していることが「この目で見たこと」なんだろうな、と思いました。
きっと歴史上どんな人だったかなんてことは知っていると思うんですよ。でもその姿を大倶利伽羅は見ていないから、主観で語るのかなと思いました。
大倶利伽羅がそういう性格だと鶴丸はわかっていたからスパルタやったんだろうなと思います…。

この公演は、手紙を軸に進行する物語でしたが、手紙って“人の心を種としてよろづの言の葉とぞなりにける”「歌」と通じるものがあるじゃないですか。
どちらも心から生まれ、人の手で綴られるものなので…。ずっと刀ミュがしていた話じゃないですか〜〜!!刀ミュはやりたいことに合わせたテーマ持ってくるのがうますぎますね。震える。

我々が歴史上人物を知るとき、歴史書に載ってることがすべてになってしまうけど、今回取り上げられた伊達政宗はそれはもうたくさんのお手紙を書き残していたから人となりが後世のわたしたちにもよく分かるというのがなんかもう胸に来てしまいました。
ここ最近の刀ミュって「残らないもの」の話が多かったじゃないですか。
パライソの3万7千人とか。東京心覚の名前もない誰かとか。江水散花雪の放棄された世界とか。
それでも僕らが覚えている。忘れないから。そういうお話が続いていたように思います。
ここで「残っているもの」を通して、それら残らなかったものを緩やかにシリーズとして繋いだの見事でしたね…

人が死んだ後、後世に残った書状や伝聞でその人が再構築されてしまい、本来のその人の人となりを知ることはできなくなる、ということはままあることです。これは偉人に限らず、我々も同じです。
なので、鮮やかに人となりが残っている伊達政宗を羨ましいと思ってしまいました。そして、手紙がたくさん残っていたということはたくさんの人に愛されていたということでもあると思うんですよね。本当に素敵な人だったんでしょうね…。

心の中に秘めているだけのことはなにひとつ残らない。という話は、見ようによっては厳しい話じゃないですか。その通りだけどそれじゃあ救いがない。だから、“残っている”話をするよ、というの本当に優しい作劇だなと思います。
伊達政宗はたくさん手紙を残していた。
その手紙はまるでつくもがみのように。
という語りが、付喪神である刀剣男士に向けるまなざしとして優しすぎませんか…。やはり、付喪神とは人の心から生まれるものなのかもしれない…等々考えましたが話がそれるのでこの話はまた別に…。

めご姫の遺品から出てきた手紙みたいに、ずっとずっと誰かを支えるお守りになることだって出来るんですよ。ただの紙切れでも心が乗ればもうそれはただの紙切れではないので。
手紙ひとつで、命は救われるし、歴史は変わるし、誰かのお守りになるし、武器にも盾にもなる、そして夢にも。
手紙って心そのものなんですよね…江水散花雪の後にこの話をされるともう 江水散花雪のオタクは死にました。

歴史上良くない結果に終わったことでも、もしかしたら当事者は楽しんでたかもしれないぜ?と鶴丸が言うのも、なんて優しいのかしら鶴丸は…と思いました。わたし自身もそうだったらいいなと強く思います。
歴史に残ってることしか知りえないけど、それの何倍もの人生があって、それが全部今に繋がってるんですよね。
なんて重いんだろう。そしてそれを全部背負って守らなければいけない刀剣男士ってなんて途方もないことをしているんだろう……と胸がいっぱいになってしまいました。

心をもつものは心を理解しないと生きてはゆけないんでしょうね。
心って複雑で厄介ですごく重い。理解しないままそんなものを抱えていたらきっといつか壊れてしまうと思います。ね、鶴丸……
普通の人間であれば成長の過程で自然と理解していくものだと思いますが、刀剣男士は生まれてすぐに理解しなければいけないの、あまりに難儀なあり方ですね。うう。

伊達政宗と大倶利伽羅

祝杯のシーンで、太鼓をやってられっかと放り出し、戦うこと以外興味は無いという大倶利伽羅に鶴丸はどうしてもわかって欲しかったんだということが

たくさんの人と心を分け合った
私ひとりではどこにも行けぬ
今は生きるのさえままならぬ

人はひとりでは生きていけないということです。
鶴丸は大倶利伽羅が「俺1人で十分だ」と思っているままでは命を預けあえる相棒にはなり得ないと思っていたから、ひとりでは生きていけないことをわかってほしかった。
だからこそ、伊達政宗の生き様を見て欲しかったんでしょうね。

命預けられてもないのに手ぇ出して!……悪かったな

悲しいよ、このセリフ

会津征伐に赴いていたので表舞台に出る機会を失ってしまった伊達政宗の心はバッキバキに折れてしまったらしいですが、立ち直りなんと夢は世界へ!
「しぶといよなぁ人間って。天晴れだよ!」
鶴丸は人間のそういうところを好いてくれているのかもしれないと少し見えた気がして泣きました。

大倶利伽羅が少しずつ、少しずつ自分の足で土を踏みしめるように変わっていく様が本当に愛おしかったです。

「ひとりで十分と言わないのかい?」
「不十分は承知している。だがやらせてくれ!」

このやりとりが最高でした。
自分の不十分さや弱さを自覚し、足るものに近づけようとする営みこそが強さだと思います。その通り大倶利伽羅はどんどん強くなることをもうわたしたちは知っているわけなので胸がいっぱいになってしまいました。

死にかけた鶴丸がひょいと起き上がった時に本気で怒る大倶利伽羅が本当によかった。
ところで鶴丸は三途の川渡りかけたのかな。渡りかけてましたよね。嫌。

鶴丸国永と穴

鶴丸が冒頭で穴を掘りつつ歌う歌の薄ら寒いことよ…。自分が入る(落ちる)穴なんて、まるで墓じゃないですか。
最後に自分が掘った穴に落ちてゾッとしたけど、ノータイムで引っ張り上げてくれる大倶利伽羅がいて、よ、よかった…。
埋めるのが大変なくらいの深い穴が、心の傷の暗喩だとしたら、彼はどれだけのものを抱えて生きているんだろうとつらくなってしまいました。
でも、その穴があっても引っ張りあげてくれる人がいれば、生きていけるんですよね。鶴丸は大倶利伽羅がそういう風に心育ってくれて安心したんだろうな…。本当はひとりで生きていけないってこと、鶴丸が一番思っていたことなんだと思います。
そしてこの大倶利伽羅が『静かの海のパライソ』の“白き息”に繋がるんだな…とそればかり考えています。白き息が好きなので。ああ…

最後、穴埋めるとこまでやらずに「逃げるかもしれないぜ?」と去ってしまったのは、ああ、彼の心の穴は埋まらないんだな…と。

大倶利伽羅だけでなく、大倶利伽羅の成長を通して鶴丸も「少しはいい面構え」になれて、よかったなと思います。(そして静かの海のパライソへ)

おわりに

曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く

伊達政宗の世辞の句

歌ひとつでひとの心が動くことがわからなかった大倶利伽羅が
「いい歌だよなぁ」
「そうだな」
というやりとりをして終わるの大変よかったですね。

もう書きたいことは全部書いたのでおわりに書くことそんなにないんですが(ないのかよ)
新作公演を見るたびに今までとこれからがつながる様を見せていただけて、自分の心も豊かになるようで今後がより楽しみになりました。二部でなぜか(?)『江 おん すていじ』への言及もありましたし…。

「人の二度目の死は誰からも忘れられてしまうこと」なんていう話がありますが、何百年経ってもその人が人々の記憶の中で連綿と生き続けている様は救いでもあるなと思いました。
死は平等で理不尽で恐ろしいものですが、その後に向けられる気持ちがこのようにやさしいものであればいいな、と心から思います。

刀ミュ、サイコー!


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