父の教え
母のことばっかり書いてると、父に拗ねられそうだから(笑)父から教わったことも書いておこうと思います。
私の父は、60きっかりで仕事を辞めました。幾つかの誘いがあったのですが全部断って!老後資金が潤沢でもないのになぜだろうと思ったのですが、60からは趣味の釣りを道具から自作して天気がよければ釣り三昧。そして、家を自分でリフォームして、母と妹のために暮らしやすい綺麗な家にしてくれました。妹が結婚して孫が生まれてからがんが見つかりましたが、家族でハワイに行くなど楽しい思い出もできた後、本当に大変な闘病は1ヶ月弱でほとんど家族に迷惑をかけずに他界しました。
こんなに早くに死ぬ人ではないと思っていたのだけど、父の父も早かったのでなんとなくそんな気がしていたのかな、と今は思う、潔くあっぱれな人生でした。
父は、地元でも有名な美男子だったそうです。高校時代は水泳の選手だったそうで、なかなかスタイルの良い人でした。スケートとスキーと、野球も得意でしたが、走るのは速くなくて、それがこの私に遺伝したと祖母は嘆いていました。足が長いところが気に入って結婚したと母は言っていましたが、あまり背が大きくなくて、瘦せ型で、菅原文太さんによく似ていました。若い頃は短気で喧嘩っ早い人だったそうですが、私たち姉妹は、父に怒られたことがありません。もちろん、手を上げられたことなんか一度もないです。夜に帰りが遅くなった時、一度だけ、お母さんに心配かけるな、と言われたことがありました。きっとあれは自分が心配だったからだな、と思っています。
父は車を直すのが天才的にうまい人でした。いつも車にだいたいひと通りの工具が積んであります。高速道路のサービスエリアで、川越街道の路肩で、旅先の農道で、またある時は、デパートの駐車場で、エンコしている車を見つけると、「おう、どうした?」と駆けつけていきます。当時はまだ、よく止まる車多かったから…
そんな時、私たち家族は、「また始まった〜」と思うのです。せっかくの家族旅行中であっても、車の修理が終わるまで、待ってるしかないから、女三人はおしゃべりしながら待つのです。「またか〜」と思う反面、止まってしまってにっちもさっちも行かない車を直して息を吹き返し、エンジンがかかって、その家族の喜ぶ顔が見えた時、私はいつもとても父を誇らしく思うのです。車も喜んで、生き生きと走り出す姿を何度も見送りました。
父から教えてもらったことは、「困っている人がいたら助けてやれ」ということです。見て見ぬ振りをするな、ということ。自分によく余裕がないから人のことなんて助けられない、というこえも聞くけれど、そんなことじゃない。困っている人がいたら助けてやるのは当然だろ。それ以上でも以下でもない、ということ。
はたから見れば、損な役割もしたかもしれないけれど、自分のことより人のこと、駆けつけること。考えるより先に行動していた父のことを、本当に誇りに思います。
そうそう、父はなぜがベンツを直すのが得意で、止まって困っているベンツをずいぶん助けました。夜でも電話がかかってきて、どこどこにいるんだけどきてくれないか…と呼ばれて出かけていく姿をよく見ました。ある日、ベンツが止まってるのを環七で見かけて直してやったところ、それは某有名企業の重役の方のベンツだったようで、とても感謝され、我が家には不釣り合いなお歳暮とお中元が毎年届いていました。母も会ったこともないたった一度のそのお世話に感謝して贈り物をし続けてくれるなんて、と喜んでいて、偉くなる人は違うのね〜とよく言っていました。その方が亡くなるまで続いていました。
車はどんどんコンピューターが組み込まれるなど進化していったので、50代になってからもずっと、勉強しつづけてました。夜遅くまで自室で勉強していた姿をよく覚えています。
父から教えられたこと。私はちゃんとできてるかな。お人好しと言われても、それで損をしたとしても、誰かの役に立てる側の人間でいたい。そして、いつまでも学ぶ姿勢を持ち続けていたい。いつもそう思っています。
おまけ。キーロックしちゃった車を開けてあげるシーンは日常的に見ました。その素早い技に、泥棒よりすごいんじゃないかと思ったのです。今の車は開けられないわね。。。